プロ入り3年目の1951年2月下旬、サンフランシスコ・シールズのキャンプで、ほぼ直角に落ちるフォークボールを編み出したという、杉下茂(すぎした しげる)さんは、帰国後、シーズンで、”打撃の神様”と言われた川上哲治選手をもきりきり舞いさせたといいます。
「杉下茂はプロ3年目の米キャンプで無回転フォークを編み出していた!」からの続き
オドール監督から打撃練習でフォークを使うことを禁じられていた
プロ入り3年目、米サンフランシスコ・シールズのキャンプに招待されると、アメリカ選手が打撃練習で本気で打ち返してきたことから、本気でフォークボールを投げてみようと思い立ち、激しく腕を振って投げたところ、球が打者の手前でストーンとほとんど直角に落ちたという杉下さんは、評判になったそうで、
いつもは、練習中、隣りのゴルフコースに行ってしまうオドール監督が来て、
オレが打席に立つから投げてみろ
と、言われ、
打席に立ったオドール監督にフォークを4球投げると、
オドール監督からは、
もういい、わかった、打撃練習でフォークは投げるな、練習にならん!
と、言われたそうです。
(当時は、大リーグでもフォークを投げることのできる投手はほとんどいなかったそうで、「おまえはこっちに残ってやってみないか」と大リーグからオファーを受けたそうです)
当初フォークボールは巨人戦で1点も取られたくない終盤と川上哲治の打席でしか投げていなかった
そんな光景を、一緒に米キャンプに参加していた、川上哲治選手、藤村富美男選手、小鶴誠選手も見ており、それまで、日本では多投を避け、カーブと言って誤魔化していたフォークボールの存在がバレてしまったそうですが、
実際、杉下さんが日本でフォークボールを投げたのは、巨人戦で1点も取られたくない終盤、しかも川上選手の打席がほとんどだったのだそうです(1試合に数球、多くても10球ほどだったそうです)。
(杉下さんのプロ入りの時の目標は、川上選手をど真ん中のストレートで仕留めることだったそうですが、川上選手には、ずっと3割くらい打たれ続けていたことから、ついに、天知俊一監督から「川上にフォークを投げろ」と言われたそうで、ストレートで勝負できる投手になりたかった杉下さんは、最初、これを断ったそうですが、天知監督から、「監督命令だ」と言われ、仕方なく、フォークボールを投げたのだそうです)
捕手が受け止められないほど落差のあるフォークに川上哲治も手が出なかった
ただ、アメリカから帰国後は、川上選手にも、米キャンプで編み出した落差の激しいフォークボールを使うようになったそうで、ある試合では、川上選手に3球すべてフォークボールを投げると、捕手の手前でバウンドするほど落差のある球でかすりもせずに三振を奪ったそうで、
川上選手は、
キャッチャーが捕れん球を打てるわけない
と、ポツリとつぶやいたのだそうです。
川上哲治の右足首にフォークが当たった際、「大きな落差で逃げられない」と言われ自信となっていた
また、1度だけ、フォークが川上選手の右足首に当たり、死球になったことがあったそうで、
杉下さんが、後に、
なぜ逃げなかったのですか?
と、川上選手に聞いたところ、
川上選手には、
(球の大きな落差に)足がすくんで逃げられるわけがないよ
と、言われたそうで、
大きな自信になったそうです。
(川上選手との対戦は、杉下さんがプロ2年目の1950年から、川上選手が引退する1958年までだったそうですが、用具が粗悪でボールは飛ばず、投手にとって有利だった時代、川上選手は引退の2年前(1956年)まで打率3割を打っていたそうで、杉下さんは、そんな川上選手を「偉大な打者」と称賛しています)
「杉下茂がフォークを多投しなかったのは味方からのクレームが原因だった!」に続く