1954年には、32勝を挙げる活躍で、中日ドラゴンズ初のリーグ優勝と日本一に導いた、杉下茂(すぎした しげる)さんは、その後も、1955年は26勝、1956年は14勝、1957年は10勝、1958年は11勝を挙げているのですが、1958年のシーズン終了後、33歳にして、投手としての登板を考慮されない兼任監督(実質的には監督専任)の就任要請を受けたといいます。
プロ入り後わずか9年で通算200勝を達成していた
杉下さんは、プロ入り後わずか9年で通算200勝を達成すると、この9年目のシーズンは既に全盛期は過ぎていたとはいえ、10勝、翌年の1958年も11勝を挙げていたのですが、
1958年のシーズンが終わり、球団事務所を訪問すると、
球団から、
思い切ったことを考えているから、後日また来るように
と、言われたそうです。
10年目のシーズン終了後33歳で兼任監督(実質的には監督専任)を要請されていた
そして、杉下さんが、3日後、球団事務所を再訪問すると、球団からは、チームの若返りのため(30歳以上の選手たちに辞めてもらう方針となったそうです)、1958年限りで、西沢道夫選手(当時37歳)と服部受弘選手(当時38歳)に辞めてもらうと告げられ、
翌年に34歳になる杉下さんも、投手としての登板を考慮されない兼任監督(実質的には監督専任)就任を要請されたそうで、杉下さんは、このシーズン11勝挙げていたため、この話は寝耳に水だったそうですが、結局、監督就任を引き受けたのだそうです。
西沢道夫と服部受弘は背番号を永久欠番にし引退試合をすることで辞めさせていた?
ただ、杉下さんによると、その際、西沢選手と服部選手の背番号を永久欠番とし、引退試合を行うことを球団に要請したそうで、
その後、西沢・服部両選手には、背番号の永久欠番指定に加え、オープン戦で引退試合を開催することを条件に現役引退を受け入れさせたのだそうです。
ちなみに、杉下さんも、自身の背番号「20」を永久欠番にするよう言われたそうですが、監督として引き続きユニフォームを着るため、永久欠番は固辞したのだそうです。
(現在も、中日ドラゴンズの永久欠番は、西沢選手の背番号「15」と服部選手の背番号「10」だけです)
「杉下茂は中日監督辞任後に大毎オリオンズで現役復帰していた!」に続く