川上哲治監督により、トレードで巨人から放出されることを知ると、巨人を出るくらいなら現役引退をしようと、決意したという、広岡達朗(ひろおか たつろう)さんは、正力亨オーナーの父親・正力松太郎さんに引き留められ、一旦は、引退を思いとどまるも、川上哲治さんとの亀裂が修復されないまま、それから2年後の1966年、ひっそりと現役を引退したそうです。
会食で川上哲治に批判されるも正力亨オーナーとの約束から反論せずに黙って聞いていた
1964年11月25日、騒動の手打ちの意味合いで、広岡さん、川上哲治監督、コーチ陣らで会食が開かれると、広岡さんは、川上さんから、コーチ兼任でありながら監督に協力的でないと厳しく批判されたそうですが、
(広岡さんは、事前に正力亨オーナーから「いいか?当日は何もしゃべるなよ。親父(松太郎さん)の言葉は業務命令だから、どんなことがあっても反論しちゃいかん。言いたい事があっても言ってはいかん。誰に何を言われても沈黙を守ってくれよ」と釘を刺されていたそうです)
正力オーナーとの約束を守り、自分への批判を黙って聞いていたそうです。
(ただ、後年、広岡さんは、「あの時、言うべき事を言うべきだった。私が川上監督とコーチたちと、意思の疎通を図る絶好のチャンスを自ら放棄したことを意味する」と後悔したといいます)
再び現役引退を申し入れるも周囲から正力松太郎に背いてはいけないと説得されていた
しかし、広岡さんは、会食の翌日には、再び、正力オーナーを訪ね、残留するわけにはいかないと、現役引退を申し入れたそうですが、正力オーナーは態度を保留したそうです。
また、多くの球界関係者から残留するよう説得され、中でもセ・リーグ会長の鈴木龍二さんと東映フライヤーズの水原茂監督からは、
川上に背くのはまだ良いとしよう。しかし、大正力(初代オーナーで正力松太郎さんのこと)の君に対する温情を無にしてはいかん。大正力だけは、絶対に背いてはいかん
と、言われたそうで、
広岡さんは、12月、正力オーナーを訪ねて残留を申し入れ、翌年もプレーすることにしたのだそうです。
ひっそりと現役を引退していた
しかし、川上さんと生じた亀裂は最後まで埋まらず、それから2年後の1966年10月31日、広岡さんは、正力オーナーと話し合いの末、ひっそりと現役を引退したのでした。
(川上さんは、品行方正な長嶋茂雄さんや王貞治さんと違い、勝負の世界における正義とフェア精神の名のもとに、思ったことをズバズバ言う広岡さんが煙たくて仕方がなかったのだそうです)
後輩に守備技術を快く教えていた
ちなみに、広岡さんが現役引退した年(1966年)は、開幕10試合以降は出場機会が激減し、黒江透修さんに遊撃の座を譲っているのですが、
黒江さんは、
当時の巨人軍の縦社会は非常に厳しく、迂闊(うかつ)に先輩にアドバイスを求められる時代じゃなかった。でも新人だった自分が同じポジションの広岡さんのところへ聞きに行くと懇切丁寧に教えてくれた。
広岡さんからレギュラーを取った形になったけど、『別にお前に取られたからってどうってことはねえんだよ』って広岡さんは笑いながら言ってくれたのを覚えています
と、語っているほか、
同年、巨人に入団した江藤省三さん(元慶応監督)も、
セカンドだった自分が広岡さんに『ゲッツーのときにどの辺りに投げればいいですか?』と尋ねると、『どこに投げても捕ってやるから遠慮せずにやれよ』と言われた。本当に嬉しかった
と、語っています。