川上哲治監督との確執が原因で、1966年に現役を引退した、広岡達朗(ひろおか たつろう)さんは、引退後は、自分の野球が巨人よりも正しいことを証明するために、アメリカ・メジャーリーグを視察する決意をし、渡米したそうですが、そのついでに、ベロビーチでキャンプ中の巨人を陣中見舞しようとすると、巨人の選手たちは広岡さんの姿を見た途端、練習を辞めてしまったといいます。
自分の野球が正しいことを巨人に証明するためメジャー・リーグを視察
1966年、川上哲治さんとの確執から引退を余儀なくされたという広岡さんですが、実は、引退試合をしてくれるという話もあったそうですが、丁寧に断ったそうで、
(「そんなもの結構ですよ」という思いだったそうです)
それよりも、「自分が目指す野球は、自分を追い出した巨人よりも正しい」ということを示したかったことから、それを証明するには、もっと野球を勉強するしかないと思ったそうで、1967年、本場の野球を観て勉強するため、アメリカに渡ってメジャー・リーグを視察することを決意したのだそうです。
((母校の)早稲田大学の知り合いに英語を習い、なんとか日常会話程度をマスターして単身で渡米したそうですが、1ドルが360円の時代で、2月中旬から6月下旬までの4ヶ月強を自費でアメリカに滞在したのだそうです)
ベロビーチでキャンプ中の巨人軍を陣中見舞するも巨人(川上哲治)からスパイ扱いされていた
そんな広岡さんは、2月23日、羽田空港を出発すると、まず最初に、ハワイのマウイでキャンプ中だった東京オリオンズを訪ね、次にサンフランシスコ・ジャイアンツを約2週間に渡って訪問し、その後、ロサンゼルス・ドジャースのキャンプ地であるフロリダ州ベロビーチにあるドジャー・タウンを訪問したそうです。
すると、その年、ベロビーチでは、巨人もキャンプをしていたことから、広岡さんは挨拶をしようと練習場に近づいたそうですが、なぜか、突然、「来た。練習やめ」と号令がかかり、巨人の選手は練習をやめてしまったのだそうです。
というのも、「広岡に見せると他のチームに筒抜けになる」からだったそうですが、広岡さんは、古巣へ陣中見舞いという形で顔を出すことをを楽しみにしていただけに、スパイ扱いされ、知らぬ間に裏切り者というレッテルを貼られ、忌み嫌われていることを知り、怒りと情けなさ、悔しさでいっぱいになり、同時に、ひどく落胆もしたそうで、
すべてはあいつの仕業・・・
と、その発言主が川上監督であることを確信したのだそうです。
巨人(川上哲治)への復讐を胸に誓っていた
そして、激しい怒りの中、ホテルのベッドで横になっても、憎き川上哲治監督の顔しか浮かんでこなかったそうで、自分を認めさせるためには、巨人を倒すしかないと、この時、巨人への復讐に邁進することを誓ったのだそうです。
(広岡さんがドジャー・タウンに到着した際、出迎えに来た関係者から、ドジャー・タウン以外のホテルを紹介されたそうで、広岡さんは困惑して一夜を過ごしたそうですが、翌日になって、早稲田大の後輩でドジャース職員の生原昭宏さんから、「広岡をタウンに入れないでほしいという申し入れがあったのですが、誰がそう言ったかは尋ねないでください」と打ち明けられたそうです。ただ、生原さんは、広岡さんの滞在中、献身的に面倒をみてくれたそうです)
森昌彦(祇晶)だけは度々ホテルに訪ねて来てくれた
ちなみに、巨人のほとんどの選手は広岡さんへの接触を避けてきたそうですが、森昌彦(後に森祇晶)選手だけは、広岡さんが滞在するホテルに度々訪ねてくれたそうで、
広岡さんは、森選手の好意に感謝し、後に、ヤクルト、西武で監督に就任した際には、森さんをコーチとして招聘しています。
「広岡達朗は引退後メジャーを視察し日本との大きな違いに気づいていた!」に続く