小学生の頃から野球に夢中になると、中学進学後は野球部に入部したという、吉田義男(よしだ よしお)さんですが、補欠だった吉田さんは、米を調達し、宿舎に運ぶことが重要な仕事だったといいます。

「吉田義男は小学生の頃から野球に夢中だった!」からの続き

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旧制京都市立第二商業学校は野球の強豪校だった

京都は戦前から、平安中学校を中心に中等野球が盛んで、レベルが高く、戦時中に中断していた甲子園大会が再開されると、京都勢は一気に踊り出たそうですが、

中でも、吉田さんが通う旧制京都市立第二商業学校(京二商)は、京都市立第一商業学校(現・京都市立西京高等学校)、旧制京都二中(現・京都府立鳥羽高等学校)と共に、「全国中等学校優勝野球大会」(現在の高校野球選手権大会(春夏の甲子園))に出場し、決勝まで進むほどの強豪校だったそうです。

(1948年、学制改革で、「全国中等学校優勝野球大会」(春の選抜大会)から、現在の「高校野球選手権大会(春夏の甲子園)」と改称されたそうです。ただ、校名はこの春まで中学のままだったそうです。)

旧制京都市立第二商業学校は決勝戦で敗退していた

そんな中、1948年、春の選抜大会で、京二商は決勝戦に進出すると、京都市立第一商業学校(京一商)戦では、京二商の足立投手と京一商の北本投手はどちらも一歩も譲らぬ投手戦を展開し、0対0で延長へ。

しかし、迎えた延長11回、京一商の二塁走者の三盗を阻もうとした森捕手の悪送球で、京二商はサヨナラ負けを喫したのだそうです。

(吉田さんは、補欠だったため、ベンチにはおらず、左翼へ抜けた白球を、スタンドから悔しい思いで眺めていたのだそうです)

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補欠は米を調達して宿舎に運ぶことが仕事だった

ちなみに、当時は、どこも、米持参でないと泊めてもらえなかったそうで、補欠だった吉田さんの重要な仕事は、米を調達し、宿舎に運ぶことだったそうで、吉田さんたちは、京都から阪急電車で大阪・梅田まで出た後、歩いて中之島まで米を運んだのだそうです。

(出場校の多くは、甲子園周辺の和式旅館か大学の学生寮に宿泊したそうですが、吉田さんたち京二商は、なぜか、大阪の「堂島ホテル」だったそうです)

ただ、梅田から中之島までの道のりが大変で、(現在はきれいな街並みですが)狭く汚い道を馬が荷車を引いて通っていたことから、それと接触しそうになり、怖い思いをしたこともあったそうです。

(京都から運ぶ米だけでは足りずに、梅田の闇市で調達したこともあったそうです)

「吉田義男は中学の時に天知俊一から遊撃手の守備を褒められていた!」に続く

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