山城高校野球部では、1年生ですぐに遊撃手のレギュラーになったという、吉田義男(よしだ よしお)さんは、3年生の時には、主将を任され、4番を打ったそうですが、自分では、どう考えても向いていないと思っていたといいます。
「吉田義男は無名高校から甲子園出場を果たしていた!」からの続き
高3の時には主将で4番を任されるも向いていないと思っていた
吉田さんは、高校3年生になると、主将に選ばれ、4番を打つことが多くなったそうですが、自分では、どう考えても、主将や4番タイプではないと思っていたそうで、先輩が卒業し、やむなく任されたという感じだったそうです。
実際、ある部員が部則違反をして除名問題が持ち上がったことがあったそうで、後栄治監督は、人間を大事にすることを部員みんなに説き、切り捨てず、立ち直りを待とうと促したそうですが、吉田さんたちは寛容になれず、結果、その部員を退部させてしまったそうで、
その後、後監督がそのことをずっと残念に思っていたと人づてに聞き、吉田さんは、主将でありながら、うまく調整できなかったことを悔いたそうです。
高3の時は京都大会決勝戦で平安高校戦に敗退
さておき、1951年、主将・吉田さん率いる山城高校は、京都大会決勝の平安高校戦、初回一死一、二塁で、4番の吉田さんがセーフティーバントを決めて満塁とするも、5番の田谷博さんが投ゴロで併殺となってしまうと、
その後、平安高校のエース・清水宏員投手&上市明捕手の強力バッテリーの前に、再びチャンスが巡ってくることはなかったそうで、0対4で敗れ、吉田さんの夏は終わったそうです。
ちなみに、甲子園に出場した平安高校は、3試合で1点差勝利する勝負強さを見せ、決勝では埼玉県立熊谷高等学校を7対4で下して全国優勝したそうで、吉田さんたち山城高校ナインは、「全国制覇の平安に惜敗したわれわれは全国2位」と、理屈に合わない負け惜しみを言い、お互いを慰め合ったのだそうです。
(後に、清水宏員投手は毎日オリオンズ、上市明捕手は大映スターズに入団しています)
洛北高校戦で牽制で刺した2塁走者は後に鹿島建設専務になっていた
ところで、山城高校は、京都大会2回戦では、洛北高校に7対6で勝利しているのですが、中盤、ピンチとなり、右翼手の福島安司さんがリリーフとして登板すると、その直後、福島さんは遊撃手の吉田さんに牽制を投げ、2塁走者を刺してピンチを脱していたそうですが、
(打ち合わせはなく、サインプレーでもなく、感性で決めたビッグプレーだったそうです)
それから40数年後、なんと、その牽制でアウトにした2塁走者(梅田貞夫さん)は、鹿島建設専務になっていたそうで、吉田さんは、走者が誰だったか覚えていなかったそうですが、やられた側の梅田さんは、その時の悔しさが忘れられず、京都大学に進学後も、洛北の後輩を指導して甲子園を目指し、「有利な時にこそ油断するな」を後の仕事に生かしていたそうで、
吉田さんは、著書「牛若丸の履歴書」で、
時代を共有したこの「球友」とは、再会後、ずっとお付き合いしている。
と、綴っています。
「吉田義男は阪急の西村正夫助監督からスカウトされるも辞退していた!」に続く