物心ついた時からの大ファンだった阪神(大阪)タイガースから、大学1年生の時、スカウトされて舞い上がるも、半信半疑だったという、吉田義男(よしだ よしお)さんは、青木一三スカウトの2つの殺し文句で入団を決意したといいます。
「吉田義男は大学1年の時に阪神(大阪)タイガースからスカウトされていた!」からの続き
藤村富美男と金田正泰がプロで十分やれると言っていると聞きその気になっていた
吉田さんは、憧れの阪神(大阪)タイガースからの勧誘に舞い上がるも、当初は半信半疑だったそうで、日参されるうちに、阪神(大阪)タイガースへの入団を決意したそうですが、決め手となったのは、青木一三スカウトの2つの殺し文句だったそうで、
まず、一つ目は、
助監督の藤村富美男とベテランの金田正泰が、プロで十分やれると言っている
と、言われたことだったそうです。
親会社が阪神電鉄のため野球選手を辞めた後も食いっぱぐれはないと思っていた
そして、もう一つは、
親会社の阪神電鉄の路線は短いが、やがて姫路から名古屋まで一本でつなぐ大鉄道になる。野球を辞めても食いはぐれはない
だったそうで、
これらを聞いて、吉田さんも交渉役のお兄さんもその気になってしまったのだそうです。
実は藤村富美男と金田正泰は吉田義男を体の小さいマネージャーが入団したと思っていた
こうして阪神(大阪)タイガースに入団することを決めた吉田さんは、入団発表を前に、暮れの阪神の納会に呼ばれ、大阪・北堀江にあるくじら料理店に出向くと、
今度、立命館大から入団しました吉田義男です
と、挨拶したそうですが・・・
藤村富美男さんと金田正泰さんは、詰め襟に学生帽姿で青い顔をした約51キロの吉田さんのことを、「ああ、体の小さいのがマネージャーで入ったのか」と思っていたそうで、「プロで十分やれると言っている」という話は、真っ赤な嘘だったのだそうです。
契約金50万円は当時の大卒の初任給と比べ破格だった
それでも、大卒の初任給が1万円もなかった当時、吉田さんは、阪神(大阪)タイガースと、契約金50万円、月給3万円で契約を結んだそうで、
高卒で就職した球友が、初任給7千500円で遅配もあるとぼやいていたほか、ノンプロでプレーしながら、地方出張の多い激務をこなして健康を害した友人もいた中、
吉田さんは、月給3万円なら昇給がなくても、プロ野球で10年やれたらいいと、考えていたそうです。
契約金50万円のうち10万円は兄に渡し、残り40万円は貯金していた
そんな吉田さんは、契約金50万円のうち、お父さん代わりとなってくれたお兄さんに10万円を渡し(野球を続けさせてくれたことへの感謝の気持ちを込めたそうです)、残り40万円は従兄弟が勤務していた富士銀行西陣支店へ預けたそうですが、
幸いなことに、入団後、6万円、12万円、24万円と倍々に昇給したことから、結婚準備で家を買うまで、預金は手を付けずに済んだそうで、
吉田さんは、著書「阪神タイガース」で、
昭和27年(1952年)暮れ、 契約金50万円、月給3万円で、私はタイガースと契約を結んだ。高卒者の初任給が7000円に届かない時代だったから、景気のいいニュースとして新聞紙上をにぎわせたりもした。
今なら、入団記者会見などがあって、タテジマのユニホームを羽織ってひな壇に座らされ、抱負のひとつも言わされるのだろうが、当時はいっさい、そうしたセレモニーなどなかった。背番号の23も、空いていたのを球団から言われるままに受け継いだだけである。
と、綴っています。
「吉田義男は阪神入団直後のキャンプでコーチに守備を絶賛されていた!」に続く