1950~1960年代の阪神タイガースで、「黄金の内野陣」の一人として活躍した、吉田義男(よしだ よしお)さんは、1953年には、192併殺(現在もプロ野球記録)を完成させているのですが、今回は、その中でも、吉田さんが今も鮮やかに心に残っているという、究極の二つの併殺をご紹介ます。
「吉田義男は併殺(ダブルプレー)に強い拘りを持っていた!」からの続き
本塁刺殺だと思われていた場面で併殺を完成させていた
まず一つ目は、広島戦で、1点差、一死二、三塁という場面、監督の指示は前進守備だったそうですが、吉田さんはあえて二塁走者・森永勝也選手が視界に入る位置にいると、
(本塁刺殺が最優先のこの場面で、ダブルプレーの可能性も考えていたのだそうです)
そこへ、申し合わせたかのようなショートゴロが来たそうで、走者の森永選手は、(必ず本塁へ送球するはずだという油断があったようで、無警戒のまま)三塁を目指して吉田さんの前を走り抜けようとしたそうですが、
その時、吉田さんは、ジャストのタイミングでゴロを掴み、そのまま森永選手にタッチして一塁に送球し、見事、併殺を完成させ、ピンチを切り抜けたそうで、
吉田さんは、この時のことを、著書「阪神タイガース」で、
出会い頭のラッキーなプレーに見えたことだろう。確かに、願っていたところへ球が飛んで来た、という意味ではラッキーである。
ただ、この場面でここに球が飛んでくれば、どんな形で併殺が取れるか、常に想定していないと、そのラッキーを生かせない。私は、どんな場面でもあきらめることなく、何とかして併殺を取れないか、さまざまなケースを想定することが大好きだった。
と、綴っています。
ダイレクトでも捕球できる打球をわざとショートバウンドで処理し併殺を完成させていた
そして、もう一つは、1956年、甲子園での中日戦で、1対0でリードしていた9回、無死一塁での場面、中日の井上登選手の打ったハーフライナーがショートへ飛んで来ると、ダイレクトでも捕れる打球だったそうですが、吉田さんは、わざとショートバウンドで処理して、素早く一塁へ送球。
すると、一塁手の渡辺博之選手がベースを踏んで打者走者をアウトにした後、すぐに、一塁ベース付近で立ち往生していた走者・児玉利一選手にタッチして併殺を完成させたそうで、
アウトになった児玉選手は、一塁へ戻ることも二塁を目指すこともできず、狐につままれたような顔をしていたそうで、痛快だったそうです。
日頃から出来ないものかと思い描いていた併殺を実現していた
実は、この併殺、吉田さんが日頃から「こんな併殺はできないものかなあ」と思い描いていたシチュエーションが、そっくりそのまま実現したものだったそうで、
(一塁走者が判断を迷うようなライナーが飛んで来たら、あえてショートバウンドで捕り、捕った瞬間に送球して2つのアウトを取ってみたい、そんな想定どおりのことが起きたのだそうです)
17年間の現役生活の中で、951個の併殺に参加するも、これほど気持ち良かったダブルプレーはほかになかったそうで、もう一度同じプレーをやりたいと思い続けていたそうですが、結局、二度と実現しなかったのだそうです。
(広島戦か国鉄戦で、似たような状況になったことはあったそうですが、打球の飛んできた位置が正面より少しずれていたことや、吉田さんの集中力が少し足りなかったことから、思わずノーバウンドで捕球してしまい、この最高のダブルプレーを再び味わうことはできなかったそうです)
ちなみに、吉田さんは、著書「阪神タイガース」で、「併殺」について、
前で捕ったり後ろで捕ったり、ノーバウンドで捕ったりワンバウンドで捕ったり、実にいろいろなケースの併殺があるものだが、いずれにしても、状況をガラリと変え、試合の流れをも左右してしまうダブルプレーは、内野手冥利に尽きる。
と、綴っています。
吉田さんの華麗なジャンピングスロー