1953年、高校卒業後、大阪(阪神)タイガースに入団すると、快速球と「投げる精密機械」と呼ばれた優れたコントロールで3球団で活躍し、通算320勝232敗、3159奪三振、防御率2.45を記録するほか、シーズン最多無失点勝利13、通算最多無四球試合47、シーズン最多無四球試合10など、数々の記録を打ち立てた、小山正明(こやま まさあき)さん。今回は、そんな小山さんの幼少期をご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

小山さんは、1934年7月28日生まれ、
兵庫県明石市の出身、

身長183センチ、
体重73キロ、

学歴は、
明石市立二見小学校
⇒明石市立二見中学校
⇒兵庫県立高砂高等学校卒業

ちなみに、「小山正明」は本名です。

俳優・芥川比呂志とそっくり

小山さんは、俳優・演出家の芥川比呂志さんに似ているとよく言われていたそうですが、芥川さん本人も、著書「決められた以外のせりふ」の中の「テレビあれこれ」というエッセイで、

知人や友人や家族の誰彼とよく似た顔を、ひょいと見つけたりするのも、テレビのたのしみである。ぼくも、テレビのおかげで、自分に実によく似た奴を発見した。阪神タイガースの小山正明投手である。

まったく、他人の空似ということは、あるもので、われながら、見れば見るほどよく似ている。横顔が似ているとか、口元が似ているなどという生易しいものではなく、どこから見ても似ていて、後ろ向きになるといよいよ似ている。自分で見ても、腹が立つくらい似ているのだから、他人が見れば尚更らしい。

中村伸郎さんに言わせると、一死、ランナー二、三塁、ボール・カウント2—3と追いこまれたときの、眼の据わった緊張ぶりなんか、ことにそっくりだそうだから、顔形ばかりでなく、気分まで似ているのかもしれない。

最後の一球は外角いっぱいのスピード球。ショート後方のフライを、吉田がとって、みごとな併殺!テレビの画面には、ベンチへ引上げる吉田がうつる。そしてぼくは、小山のために、テレビにうつっていない小山とそっくりの顔で、にっこり笑う。テレビはまことに、無情なものである。

と、小山さんと似ていることを認めています。


左が芥川比呂志さん。右が小山さん。

亭主関白で男尊女卑の考え方をしていた父親のもと「男天国」の家庭で育つ

さておき、小山さんは、地主で小学校教諭で書道の師範だった、お父さんの英一さんとお母さんのちえこさんのもと、5人兄弟姉妹(兄1人、姉2人、妹1人)の4番目として誕生したそうですが、

お父さんは、絵に描いたような亭主関白で、男尊女卑の考え方をしていたことから、「男天国」の家庭で育ったそうです。

(特に長男であるお兄さんはお父さんに大切にされていたそうですが、次男である小山さんも、手を上げられたり、怒鳴られたりしたことは一度もなかったそうです)

小学5年生の時に野球を始める

そんな小山さんは、幼い頃はおとなしい男の子だったそうですが、小学5年生の時(終戦翌年の1946年)、戦時中は敵性スポーツとして白い目で見られていた野球が、アメリカ軍が奨励したことから大流行したそうで、

ほかの遊びも少なかったこともあり、近所で年上の人たちがキャッチャーミットやグラブを持って草野球をやっているのを見て、面白そうだと思い、野球を始めたそうです。

ただ、小山さんは、まだ幼かったことから、草野球チームには入れてもらえず、試合をする際、人数合わせで入れてもらうのみだったそうで、ルールなどは分からないため、ただ打って走るだけだったそうですが、それでもおもしろかったそうです。

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精密機械のルーツはメンコ、ベッタン、ビー玉?

ちなみに、小山さんは、野球以外の遊びでは、メンコ、ベッタン、ビー玉などをしていたそうですが、どれも強く、特に、ビー玉を枠の中に何個かおいて、自分の親玉のビー玉をそこに当てて、枠からはじき出すという遊びでは、近所の子どもたちがうまく当てることができない中、小山さんだけはうまく当てることができたそうで、

将来、プロ野球の投手になり、「針の穴を通すコントロール」「精密機械」と呼ばれたルーツはここにあったのかもしれません。

「小山正明は特別に1人で阪神の入団テストを受けていた!」に続く

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