1年先輩の渡辺省三投手から、ピッチャーで最も大切なことはコントロールだと教えられ、渡辺投手をお手本に、徹底的に走り込みをし、下半身を鍛えたことで、コントロールが良くなったという、小山正明(こやま まさあき)さんは、1958年には、24勝、防御率1.69の成績を残し、大阪(阪神)タイガースのエースとなると、翌1959年6月25日、プロ野球初の天覧試合(天皇が観戦する武道やスポーツ競技の試合)では先発を任せられます。

「小山正明は渡辺省三を手本にしてコントロールが良くなっていた!」からの続き

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念願の20勝を達成し、一躍、大阪(阪神)タイガースのエースにのし上がる

小山さんは、1年先輩の渡辺省三投手の投球技術をお手本にし、制球に磨きをかけると、1958年には、開幕前に、伊東でのミニキャンプ中、シートバッティングで投げていた際、ぬかるんだグラウンドに足を取られて右太股を肉離れするアクシデントに見舞われるのですが、

5月から復帰すると、1ヶ月のうちに7勝を挙げ、シーズンでは、24勝(12敗)防御率1.69(リーグ4位)と、初の20勝を達成し、一躍、大阪(阪神)タイガースのエースにのし上がります。

天覧試合の1週間前に先発を告げられていた

そして、1959年6月25日、後楽園球場で行われたプロ野球初の天覧試合(天皇が観戦する武道やスポーツ競技の試合)で、小山さんは先発に起用されるのですが、

実は、天覧試合の1週間前、田中義雄(カイザー田中)監督から、「小山君、君、天覧試合投げるよ」「小山君、陛下が来られる。頑張ってくれ」と、先発を告げられたそうで、

(当時は定まったローテーションというのがなく、完投した次の日にリリーフに出たり、リリーフが3日ほど続いて、その翌日に先発したりしていたそうです)

戦前のある日、自宅近くを菊の御紋がついた特別列車が通ることになった際、日の丸の旗を持って線路の際まで行き、汽車の音が聞こえる前から最敬礼(最も深く頭を下げるお辞儀)し、音が聞こえてきても頭を上げることができなかったことが思い出されたそうです。

(11歳で終戦を迎えた小山さんでさえも、天皇陛下に観戦されるということは、今では考えられないほど名誉なことだったそうです)

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天覧試合を間近に控え、父親があえて手紙をしたためてきた

また、天覧試合を間近に控えたある日には、お父さんから、

生涯おまえにはありえないことだ。とにかく目いっぱい頑張って陛下に認められるように

と、書いた手紙を受け取ったそうで、

小山さんは、この展覧試合がどれほど特別なことかを改めて実感したのだそうです。

(兵庫県明石市の実家へは度々帰っていて、両親ともよく会話を交わしていたそうですが、お父さんはあえて手紙をしたためてきたそうです)

「小山正明は天覧試合で長嶋茂雄と王貞治に同点本塁打を打たれていた!」に続く

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