高校2年生の時、大阪(阪神)タイガースと国鉄スワローズのオープン戦(米子市営湊山球場)で、渡辺省三投手(大阪)と金田正一投手(国鉄)が投げ合うのを見て、自分もプロ野球でやっていけるのではないかと思ったという、米田哲也(よねだ てつや)さんは、それでも、お父さんの勧めに従い、大学に進学するつもりでいたそうですが、阪急ブレーブスの丸尾千年次さんにスカウトされて阪急と契約すると、それを知った後援会の人たちから大阪(阪神)タイガースに入団することを勧められ、阪神とも契約したといいます。
「米田哲也は高1にしてカーブ・シュート・スライダーを習得していた!」からの続き
阪急ブレーブスと契約するも・・・
米田さんは、高校卒業後の進路を考える時期になると、お父さんから大学進学を勧められ、慶應義塾大学の日吉グラウンドで練習していたそうですが、
阪急ブレーブスのスカウト・丸尾千年次(ちとじ)さんにスカウトされると、家族同席のうえで契約し、その年(1955年)パ・リーグ連盟に登録したそうです。
(丸尾さんは、地元の靴屋の主人に、まだ高1だった米田さんのことを教えてもらい、その投球を見て一目惚れしていたそうで、米田さんが3年生の夏の大会が終わるのを待って入団交渉をしたのだそうです)
後援者に説得されて大阪(阪神)タイガースとも契約
しかし、これに、米田さんの後援者たちは驚き、後援者にはタイガースファンが多かったことから、「哲也を阪神に!」となり、大阪(阪神)タイガースに入るよう、家族共々説得されたそうで、お父さんは阪神とも契約させられてしまったそうです。
(1955年12月22日にセ・リーグ連盟にも登録したのだそうです)
二重契約のなか阪神の自主トレに参加していた
そんな米田さんは、翌1956年1月9日、翌日10日から甲子園球場で始まる阪神の合同自主トレに参加するために大阪にやってくると、待ち構えていた報道陣と、
記者:いよいよ阪神入りを決めた?
米田さん:はい、お騒がせして本当にすまないと思っています。いまは阪神にすべてをお任せしています。
記者:いい人生経験になったろう。
米田さん:いや、こんな経験はしたくないですね。ぼくの田舎の方じゃ、プロの難しい契約規則なんて知らないですし、仮契約とか統一契約書といわれても・・・。父もまずいことをしたと言ってます。
記者:阪神に決めた理由は?
米田さん:阪急に比べてチームカラーがはっきりしているところ。同じプロの世界に入るなら、阪神のように人気のあるチームへと思いました。それに、田舎では阪神ファンが多かったし
などのやり取りをしたそうですが・・・
「米田哲也が阪急を選んだのは背番号18をくれたからだった!」に続く
大阪(阪神)タイガースのユニフォームを着た米田さん。