阪急入団2年目に21勝すると、1966年には25勝で最多勝、1968年には自己最高の29勝するほか、19年連続2桁勝利を記録する活躍で、左のエース・梶本隆夫投手とともに「ヨネカジコンビ」と言われ、阪急の黄金時代を築き上げた、米田哲也(よねだ てつや)さんですが、1966年には読売系のスポーツ新聞によりトレードが報じられました。

「米田哲也は19年連続で2桁勝利し僅か11年で200勝を達成していた!」からの続き

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読売系のスポーツ新聞によりトレードが報じられる

1966年1月12日、読売系のスポーツ新聞が、「米田、巨人にトレード」「あす、正力-岡野会談で決定へ」などと報じたことから、(読売系のスポーツ紙が報じたことで信憑性は高く)各社、一斉に裏取りに走ると、

  1. 巨人がトレードを阪急に申し入れたのは1月7日のこと
  2. 巨人の坂本広報部長が来阪し阪急の宮田取締役へ打診。阪急は回答を保留。
  3. 球団と契約更改交渉でもめていた米田が「阪急に嫌気がさした。ほかの球団に出たい」と発言していた

の3点が判明したといいます。

契約更改交渉の席で10年選手ボーナスの金額を巡って阪急球団と揉めていた

実際、米田さんは、契約更改交渉の際、1年目こそ9勝に終わったものの、2年目に21勝すると、以後9年連続で2桁勝利を挙げ、10年で184勝(179敗)を記録していたことから、「10年選手ボーナス」として1500万円を求めるも、阪急球団の提示額は1千万円どころか、半分にも満たない額だったそうで、

(当時、プロ野球界には、入団から10シーズン以上、現役選手としてプレーした選手には、ボーナス(再契約金)または、他球団への移籍権利を与えるという「10年選手制度」がありました)

お話にならん。誠意の問題ではなく評価の問題だ

と、主張したそうですが、

阪急球団側は、

ほかの球団と比較して不満を持っているようだが、ウチの経営状態も考えてもらいたい

と、反発したそうで、

両者の言い分は平行線のまま年を越し、トレード話が報道されたのは、ちょうどそんな時だったそうです。

(新聞を見た阪急・西本幸雄監督は、血相を変えて球団事務所に飛び込み、「新聞記事は本当なのか?もし本当ならオレは監督を辞める」と、宮田取締役に詰め寄ったと言われています)

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阪急・岡野祐球団社長はトレードをきっぱり否定も米田自身は揺れていた

そんな中、岡野祐球団社長は、

巨人の正力(亨)オーナーが会いたいというので、あす13日に会う。聞くところによれば、巨人は高橋明を見返りに米田を欲しいようだが、高橋どころか城之内をくれるといっても米田は絶対に出さない。正力さんに会っても、米田の話は問題外だ

と、米田さん放出をきっぱり否定していたそうですが、

米田さんはというと、

ボクとしてはボーナス交渉で希望額を出してくれないのなら、トレードに出してほしい。ただ、阪急には愛着が・・・

と、揺れ動いていたのだそうです。

「米田哲也の巨人トレードは小林米三オーナーの断固拒否で決着していた!」に続く

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