1942年には、プロ野球史上最長の28イニングを投げぬくほかノーヒットノーランも達成した、西沢道夫(にしざわ みちお)さんですが、翌1943年のシーズンを最後に太平洋戦争のため応召(召集に応じて軍隊にはいること)されると、1946年には復員するも、肩を痛めたため、投手として思うような活躍ができなくなったといいます。そんな中、父親のように慕っていたという、元同僚で先輩の新球団・ゴールドスターの監督を務めていた坪内道典さんから、打者として入団を誘われると、この誘いを受け、打者への転向を図ったといいます。

「西沢道夫は延長28回を投げ抜いた年ノーヒットノーランも達成していた!」からの続き

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応召中に肩を痛め、復員後は投手として思うような成績が残せなかった

西沢さんは、太平洋戦争の戦局悪化に伴い、1943年のシーズンを最後に応召(召集に応じて軍隊にはいること)されたそうで、1946年には復員し、中部日本軍(名古屋軍⇒産業軍から改称)に復帰するのですが、応召中に肩を痛めていたため、投手として十分な活躍ができず、ベンチを温めるようになっていったそうです。

(名古屋軍は、1944年に産業軍⇒1946年に中部日本軍⇒1947年に中日ドラゴンズ、と改称しています)

中部日本軍ではチーム内で内紛があり居づらくなっていた

また、運営母体の本社・中部日本新聞社が、まだ新人だった杉浦清さんを選手兼任監督に据えたことから、戦前の名古屋軍時代から赤嶺昌志球団代表の影響下にあった選手達が反発していたそうで、チーム内は内紛状態で雰囲気が悪く、西沢さんは居づらくなっていたといいます。

(戦前の名古屋軍時代から、赤嶺昌志球団代表が球団の運営を一手に引き受け、球団の活動を支え続けていたのですが、戦後、プロ野球再開時の連盟登録申請の際、赤嶺球団代表が、休止時の球団名を「中部日本」と書いたことが災いして、親会社の中部日本新聞社が球団経営に介入を強めていき、やがて人事にも介入するようになり、まだ新人選手だった杉浦清さんを選手兼任監督に据えたそうで、これに、赤嶺派の選手たちが反発し、内紛となったそうで、1947年オフには、赤嶺球団代表が解任されると、古川清蔵、金山次郎、小鶴誠ら主力選手たちが追従して中部日本軍は一気に戦力ダウンし、以降、苦戦を余儀なくされたそうです。(※「名古屋軍」または「産業軍」と記入していればその後の問題が起こることはなかったと、赤嶺球団代表も後に「一生一代の不覚だった」と後悔を口にしていたそうです))

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元同僚で先輩の坪内道典監督から誘われ新球団・ゴールドスターに移籍し、打者として再出発を図る

そんな中、西沢さんは、新球団・ゴールドスターの監督を務めていた元同僚で先輩の坪内道典さんから入団を誘われたそうですが、

投手ではなく、打者として再生させるという条件付きだったそうで、中部日本軍の嫌な雰囲気から逃れたかった西沢さんは、1946年シーズン途中でゴールドスターに移籍し、打者(一塁手)に転向して再出発を図ったのだそうです。

(西沢さんは、以前から、坪内監督を父親のように慕っていたそうですが、坪内監督は西沢さんの打者としての素質を見抜き、打者として再生させるために誘ったのだそうです)

「西沢道夫は中日復帰後は首位打者と打点王の2冠王に輝いていた!」に続く

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