1949年、天知俊一監督に打者として見初められ、熱心に要請されて、中日に復帰すると、たちまち打者としての才能を開花させ、1952年には、首位打者と打点王の2冠王に輝くほか、1954年には、中日初のリーグ優勝と日本一に多大な貢献をした、西沢道夫(にしざわ みちお)さんですが、1955年、正捕手だった野口明選手が選手兼任監督となり、一塁手から外野手への転向を告げられると、抵抗の意を示すべく、失踪したといいます。
「西沢道夫は中日復帰後は首位打者と打点王の2冠王に輝いていた!」からの続き
中日は2年連続2位の天知俊一監督が辞任し3位となっていた
1949年、新たに天知俊一監督となった中日ドラゴンズは、全体的には若いチームだったこともあり、連勝と連敗を繰り返すなど、大味な野球が続くも、最終的には、前年の最下位から(8球団中)5位に浮上すると、2リーグ制となった1950年、1951年は、2年連続2位となり、徐々に結果を出していきます。
ただ、1951年のシーズンオフに天知監督が辞任し(実権のない総監督に異動)、坪内道典選手が現役を引退して監督に就任すると、翌1952年には、西沢さんと杉山悟選手が打撃三部門を占める成績を挙げ、杉下茂投手が32勝を挙げる活躍をするも、チームは3位にとどまってしまいます。
(坪内道典選手は、1951年は全試合に出場していたにもかかわらず、この年限りで引退したそうです)
中日ナインに懇願され監督に就任した天知俊一のもと、中日は初のリーグ優勝&日本一に輝いていた
そして、1953年も3位にとどまると、同年秋には、坪内監督を筆頭に、西沢さんや野口明選手ら主力選手が天知さんの自宅に通い詰め、監督復帰を懇願したそうで、当初は体調不安から断っていた天知さんも、最終的には折れ、監督になることを承諾すると、
翌1954年には、天知監督の下、西沢さんをはじめ選手たちが一枚岩となって戦ったそうで、主軸の西沢さんは前半戦こそ精彩を欠いたものの、後半戦に入ると復調して打線の起爆剤となり、8月17日には首位に。
すると、そのまま最後まで首位をキープし、初優勝を決めたそうで、日本シリーズでも同じく初進出の西鉄ライオンズを制し、日本一に輝いたのでした。
(2023年現在、中日がリーグ優勝と日本一ともに達成したシーズンはこの1954年のみ)
天知俊一が中日ナインから監督復帰を懇願されるほど人望を集めた理由とは?
ちなみに、天知監督がこれほどまでに選手たちから人望を集めたのは、自身の給料のすべてを選手の食費に回すほか、いつも選手のことを気遣う監督だったからで、
実際、天知監督の奥さんは、「プロ野球の監督は無給でやるもの」と思っていたといいます。
野口明新監督から一塁から外野へのコンバートを通告され失踪していた
さておき、1954年に中日を初のリーグ優勝&日本一に導いた天知監督は、オフには辞表を出し、球団からの慰留にも応じなかったそうで、1955年は、正捕手だった野口明選手が選手兼任監督となったそうですが、
西沢さんは、野口新監督に、
今年一塁手として新人選手を獲得したから、今年から外野を守ってもらいたい
と、コンバートを通告されたそうで、
打者に転向して以来、主軸として一塁を守っていたことから、外野への転向理由が、「新人選手を獲得したから」ということに納得できず、これに抵抗して、突然、失踪したのだそうです。
(本来ならば、言い争いになるところですが、西沢さんは争いごとを好まない性格だったため、抵抗の意を示すために「失踪」という手段に出たのだそうです)
すると、結果、外野へのコンバートは撤回されたそうで、西沢さんは、引退するまで、一塁手のポジションを守ることになったのだそうです。
「西沢道夫の現役引退は自身で決意?それともクビだった?」に続く