1949年に打者に転向して以降は、強打者として活躍し、1954年の中日ドラゴンズ初のリーグ優勝&日本一にも多大な貢献をした、西沢道夫(にしざわ みちお)さんは、1958年には、この年、打率2割7分5厘と、まだ、余力がありそうな成績を残しながら引退しているのですが、西沢さんは球団の慰留を振り切って引退したと語っているのに対し、同僚だった杉下茂さんはクビだった語っています。
「西沢道夫は一塁から外野への転向を通告され失踪していた!」からの続き
打率2割7分5厘と余力が感じられる中、自身で現役引退を決意?
西沢さんは、1958年(38歳)は、出場試合数は107とやや少ないものの、打率は2割7分5厘と、まだまだ余力が感じられる中、引退を決意すると、何度も球団から慰留されるも、意思は変わらず、最後は球団が諦める形で、同年11月25日に現役を引退したとし、
インタビューでは、
僕にはもう野球にかける情熱が無くなった
身も心もさっぱりしました。何も自分の歩いてきた道に思い残すことはありません
と、すっきりした表情で語り、
翌1959年3月15日には引退試合(南海戦)をしているのですが・・・
(この年初めてプロ野球に引退試合が導入されたそうです)
杉下茂は中日が若返りのため当時38歳の西沢道夫に辞めてもらう方針だったと語っていた
中日で西沢さんと同僚だった杉下茂さんによると、1957年、中日球団から呼ばれ、チームの若返りのため、30歳以上の選手たちに辞めてもらう方針で、翌1958年限りで、当時37歳だった西沢さんと38歳だった服部受弘さんに辞めてもらうことを告げられ、
さらには、翌年34歳になる杉下さんも、投手としての登板を考慮されない兼任監督(実質的に監督専任)就任を要請されたことから、
杉下さんは、監督を引き受ける条件として、功労者である西沢さん・服部さんに対して、背番号の永久欠番と引退試合行うことを球団に要請すると、その後、中日球団が、西沢さんと服部さんに、背番号の永久欠番指定とオープン戦で引退試合を開催することを条件に現役引退を受け入れさせたとしており、内容が異なっています。
(杉下茂さん、中利夫さん、高木守道さん、大島宏彦さん(中日新聞社最高顧問、元中日球団名誉オーナー)との対談より)
引退は西沢道夫本人が中日球団より先に表明していた
また、中日球団としては、後日、大々的に引退会見を開こうと思っていたそうですが、同年11月25日、マスコミによって西沢さんの引退が報道されてしまったといいます。
というのも、この日は、名古屋市の江戸料理店「八百善」でチームの納会が行われていたそうですが、西沢さんが、球団幹部の知らぬ間に、店の別室で、新聞記者たちに引退を表明していたそうで、
西沢さんによると、以前、東京の自宅で、知り合いの記者に引退をもらしたところ、騒ぎとなり、これ以上隠せないという思いから、自身の判断で引退を発表したとしています。
引退後はラジオとテレビの解説者として契約したことを明かしていた
さておき、西沢さんは、
これからは家庭生活、ことに、よき父として子どもたちの面倒を見なければならないと思います
と、語るほか、
ファンの方にわかりやすく、しかもユーモラスにやっていきたいと思っています。自慢するわけではないんですが、僕の声は割合聞きよいとアナウンサーの方に言われたことがあるんです
と、ラジオとテレビの解説者として契約したことも明かし、笑顔を見せていたそうです。
監督・コーチ就任についてはきっぱり否定していた
ただ、西沢さんは、コーチや監督など指導者として球界に復帰することについては、
私は二度とユニフォームを着ない覚悟で引退しました。そういう勧誘があってもお断りします。私は人の上に立って、たとえばコーチとして人を指導する力はありません。自分の力は自分が一番よく知っています
と、きっぱり否定しています。
「西沢道夫の現役(プロ野球選手)時代の成績が凄すぎる!二刀流だった?」に続く
1959年3月15日、引退試合(南海戦)で挨拶する西沢さん。