1962年7月18日、阪神の入団テストを受けるため来日すると、長身から投げ下ろす速球は威力があったものの、ノーコンで、周囲には使い物にならないと言われるも、藤本定義監督にその才能を見出され、合格したという、ジーン・バッキー(gene bacque)さんは、すぐに、妻のドリスさんを日本に呼び寄せ、日本での生活を始めたそうですが、当初は、家賃1万3000円の木造二間のアパート暮らしという、今では考えられないひどい待遇だったといいます。
「ジーン・バッキーは阪神の入団テストで使い物にならないと言われていた!」からの続き
当初は打者として2軍のコーチに気に入られていた
シーズン途中に阪神タイガースの入団テストを受け、阪神入団が決まったバッキーさんは、すぐに、妻のドリスさんに、日本に行くからすぐに準備してくれという内容の電報を打つと、その後、ハワイに一度戻って2日で労働ビザを取り、荷物をまとめて、日本にとんぼ返りしたそうで、当初は、1週間ほどホテルに泊まりながら2軍の練習に通っていたそうですが、
(既にその年の4月に結婚式を挙げ、一緒にハワイで住んでいた妻のドリスさんは、とても喜んでくれたそうです)
2軍では、最初、「打ってみろ」と言われたそうで、打撃練習をしてみせたところ、コーチに気に入られ、今度は、一塁の練習をしろと言われたそうで、ひょっとしたら打者として採用されたのかもしれないと不安に駆られ、「無理です」と言って断ったそうです。
甲子園球場裏の家賃1万3000円の木造二間のアパートに自腹で住んでいた
ちなみに、バッキーさんの住まいは、甲子園球場裏の家賃1万3000円の木造二間のアパート(1間と台所、和式(ボットン)便所、お風呂のみ)で、家賃は自分持ち、甲子園球場へはサンドウィッチ弁当を持って自転車通勤という、現在の外国人選手では考えられない、ひどい待遇だったそうですが、
バッキーさん本人はというと、初めての外国生活ではあったものの、ハワイでは日系人の知り合いも多かったこともあり、畳の部屋に抵抗はなく、それほど戸惑うことはなかったそうで、(和式のトイレ以外は)日本の生活で困ることはなかったそうです。
必死で日本語を覚えるなどチームに溶け込もうと努力していた
また、バッキーさんは、通訳もいない環境下で必死で日本語を覚えたほか、遠征先の宿舎も日本人選手たちと同じ日本旅館の大部屋で他の選手たちと一緒に布団を敷いて寝起きし、チームに溶け込もうとしたそうです。
(ただ、身長が190センチ以上あったため、浴衣の裾はひざまでしかなく、つんつるてんだったそうで、バッキーさんは、「しかたないね」と、ままならぬ日本語で、両手を広げて笑っていたそうです)
そして、エースに成長した後も待遇は変わらなかったそうで、1965年、高知・安芸市で初めてキャンプを張った際にも、田舎でホテルがなく、(滞在期間が長かったため、ベッドで寝たいと思っても)ベッドなどといった気の利いたものはなかったそうですが、安芸市の人たちが思案して、市役所近くの空き地にプレハブ住宅を建て、ベッドを運び込んでくれたそうです。
(このプレハブの建物は「バッキーハウス」と呼ばれ、当時を知る人たちの間で語り継がれているそうです)
「ジーン・バッキーは杉下茂の指導で最多勝&最優秀防御率&沢村賞を獲得していた!」に続く