1962年に阪神タイガースに入団すると、1964年には、29勝9敗、防御率1.89で、最多勝、最優秀防御率、沢村賞を獲得するほか、阪神在籍7年間で100勝し、村山実投手とともに二枚看板のエースとして活躍した、ジーン・バッキー(gene bacque)さん。今回は、そんなバッキーさんのご家族についてご紹介します。
「ジーン・バッキーはメッセンジャーの引退表明翌日に死去していた!」からの続き
妻・ドリスが背中を押してくれたことですんなり日本でプレーすることができた
バッキーさんは、1962年4月、看護師のドリスさんと結婚しているのですが、結婚式の2日後、在籍していた、マイナーリーグの3Aハワイ・アイランダーズ(現在は消滅)を解雇されたといいます。
ただ、野球を諦めきれなかったバッキーさんは、その後、日系人チームの「ハワイ朝日軍」でプレーしていると、「ハワイ朝日軍」のエンゼル・マエハラ代表に推薦され、同年6月末~7月始め頃、阪神タイガースの入団テストを受けると合格。
そして、すぐに、バッキーさんが、ハワイで一緒に住んでいたドリスさんに、日本に行くからすぐに準備してくれという内容の電報を打つと、ドリスさんは、とても喜んでくれたそうで、バッキーさんは、この時、日本でどうなるのか、ゆっくり考えている時間はなかったそうですが、ドリスさんが背中を押してくれたことから、スムーズに日本へ行くことができたのだそうです。
妻・ドリスは日本での生活も愚痴ることなく明るく振る舞ってくれていた
また、バッキーさんとドリスさんが日本に来て最初に住んだアパートは、甲子園球場裏にあった木造二間の日本式の質素なアパート(和室1間と台所、和式(ボットン)便所、風呂)だったそうですが、
ドリスさんは、畳の部屋も、「布団を畳んでしまえば部屋が広くなる」とあっけらかんとしていたそうで、慣れない日本の生活の中、愚痴一つこぼすことなく、むしろ、明るく振る舞ってくれたそうです。
(ただ、和式のトイレだけは膝が痛くなったことから、困っていたそうです)
妻・ドリスは腎臓の病気により74歳で他界していた
そんなドリスさんは、バッキーさんがプロ野球を引退してアメリカに帰国した後は、看護師として、学校の保健室で働いていたそうですが、仕事を引退して数年経った2011年に、腎臓の病気により、74歳で他界されたそうで、
バッキーさんは、2015年の取材で、ドリスさんをどれだけ愛し、どれだけ恋しく思っているか、いかに素晴らしいパートナーであり、母親であり、看護師であったか、ドリスさんを思わない日がないことなどを、切々と語っています。
子供は5人、孫は6人、ひ孫は2人
そんなバッキーさんとドリスさんの間には、子供が5人(息子1人と娘3人、1人は不明)誕生しており、長女はリタさん、三女はスーザン(フランス語の発音でスザンヌとも)さんというそうですが、スーザンさんは、一人暮らしをしていたバッキーさんの近くに住み、毎日、様子を見ていたといいます。
(長女のリタさんは、バッキーさんが日本滞在中に誕生した子供で、幼い頃は日本語を話していたそうですが、アメリカに帰ると、すぐに日本語を忘れてしまったそうです)
また、バッキーさんには、孫(6人)やひ孫(2人)もおり、2018年には、取材に訪れた記者に、子供たちの成長や、孫やひ孫の話を、楽しそうに語っていたといいます。
さて、いかがでしたでしょうか。
ジーン・バッキーさんの、
- 年齢は?出身は?身長は?本名は?
- 曽祖父がフランス人で幼い頃は英語よりもフランス語の方が得意だった
- 3Aハワイ・アイランダーズの春季キャンプに参加も1Aに降格していた
- 日系人チーム「ハワイ朝日軍」(ノンプロ)でプレーしつつ日本球界入りを目指していた
- スポーツニッポンの記者・有本義明に速球からのナックルボールを見初められた
- 結婚したばかりで働きたかったことと野球を辞めたくなかったことから日本行きを承諾
- 阪神の入団テストを受けるために来日
- 入団テストではノーコンも藤本定義監督の意向で合格
- 当初は打者として2軍のコーチに気に入られていた
- 甲子園球場裏の家賃1万3000円の木造二間のアパートに自腹で住んでいた
- 必死で日本語を覚えるなどチームに溶け込もうと努力していた
- 2年目オフに解雇されるところだった
- 新投手コーチ・杉下茂の直談判により解雇を免れていた
- 投手コーチの杉下茂に徹底指導を受ける
- 1964年には、最多勝、最優秀防御率、沢村賞を獲得し阪神のリーグ優勝に大きく貢献
- 通算100勝を達成
- 渡辺省三、小山正明のピッチングを食い入るように観察して研究していた
- バッキーのひたむきさに阪神ナインも親身になっていた
- アメリカでは捕ってもらえなかったナックルボールを辻恭彦(ダンプ)捕手は捕球してくれていた
- 闘志をむき出しにした投球でON(王貞治&長嶋茂雄)擁する巨人を苦しめていた
- 王貞治に死球と危険球を連発していた
- 巨人の荒川博打撃コーチが掴みかかってきて左太ももにスパイクでキックを見舞ってきた
- 巨人の荒川博打撃コーチの頭にパンチを食らわせ右手親指の付け根を複雑骨折
- バッキーに代わり権藤正利が登板するも王貞治に死球を与え再び乱闘
- 次打者の長嶋茂雄がホームランで決着
- 荒川博打撃コーチとはすぐに仲直りしていた
- ホームランを打った際には王貞治から声をかけられていた
- 近鉄に金銭トレードされていた
- 椎間板ヘルニア手術の影響で復活できず解雇され現役を引退
- プロ野球選手(現役)時代の投手成績
- タイトルは最多勝利1回、最優秀防御率1回
- ノーヒットノーラン、5年連続二桁勝利、オールスターゲーム出場5回を記録
- 沢村栄治賞、ベストナインを受賞
- 背番号
- アメリカ帰国後は小学校・中学校で教師をするかたわら牧場も経営
- 1983年には阪神対巨人OB戦のため来日
- 長距離歩行が難しくなっていた
- ランディ・メッセンジャーのフェイスブックにメッセージを送ったことがきっかけで交流が始まっていた
- ランディ・メッセンジャーが自身のNBP通算100勝記録を塗り替えることを楽しみにしていた
- メッセンジャーが6度目の2桁勝利を挙げ記録を更新した際にはとても喜んでいた
- 「日本プロ野球外国人OB選手会」(JRFPA)のプロモーションで再来日する予定だった
- 来日の願いが叶わぬまま右総腸骨動脈瘤の手術後の合併症により死去
- ジーン・バッキーの訃報に接した王貞治のコメント
- 阪神のメッセンジャー宛に自身を超えるようメッセージを残していた
- 通信員の丹羽政善がメッセンジャーの引退を知らせるメールをするも音沙汰がなかった
- ジーン・バッキーの家族から危篤状態にあるとのメールを受け取っていた
- ジーン・バッキーの家族から王貞治に連絡して欲しいと依頼されるも間に合わず死去していた
- ジーン・バッキーの訃報に接したランディ・メッセンジャーのコメント
- 妻・ドリスが背中を押してくれたことですんなり日本でプレーすることができた
- 妻・ドリスは日本での生活も愚痴ることなく明るく振る舞ってくれていた
- 妻・ドリスは腎臓の病気により74歳で他界していた
- 子供は5人、孫は6人、ひ孫は2人
について、まとめてみました。
巨人のON砲(長嶋茂雄選手、王貞治選手)がバリバリの時代に、対巨人戦ではいつも以上に勝利への執念を燃やし、阪神タイガースの外国人史上最多勝利数(100勝)を記録したバッキーさん。
これからも、阪神の外国人投手が活躍するたびに、バッキーさんの素晴らしい成績がクローズアップされることでしょう。
バッキーさんのご冥福をお祈りします。