1987年11月1日、王貞治監督率いる読売ジャイアンツとの日本シリーズを制し、西武ライオンズを2年連続日本一に導いた、森祇晶(もり まさあき)さんですが、1988年は、シーズン終盤に2位の近鉄に首位の座を奪取されると、そんな中、工藤公康投手がマスコミに対して、登板拒否とも取れる発言をし、大きな騒動へと発展していたといいます。

「森祇晶は西武監督就任2年目もリーグ優勝&日本一で2連覇を果たしていた!」からの続き

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1988年はエース・東尾修が麻雀賭博で6月20日まで出場停止となるも若手選手を中心に順調に勝ち進んでいた

監督就任1年目の1986年から2年連続で西武ライオンズをリーグ優勝&日本一に導いた森さんですが、1987年オフの12月には、エース・東尾修投手が麻雀賭博で翌年1988年6月20日までの出場停止処分に課され、1988年の優勝は無理だと言われます。

しかし、工藤公康投手をはじめ、渡辺久信投手、郭泰源投手、森山良二投手が、東尾投手の穴を埋め、打線も、得点力強化のため小野和幸投手とのトレードで中日から獲得した平野謙選手を2番、入団2年目のタイラー・リー・バークレオ選手(前年途中入団ながらも外国人枠の都合で二軍生活だったそうです)を5番指名打者とすると、チームは開幕から順調に勝ち進み、6月28日の時点で2位の近鉄バッファローズに8ゲーム差をつけます。

終盤には近鉄に逆転され首位の座を明け渡していた

ただ、7月は、6勝10敗3分で負け越し、近鉄に徐々に追い上げられると、8月には11勝7敗と持ち直すも、9月にはまたしても7勝9敗と負け越してしまい、終盤の10月5日には、ついに、首位の座を近鉄に明渡してしまいます。

(この時、首位の近鉄が64勝48敗3分勝率.571でマジック13(残り15試合)、2位の西武は65勝49敗6分勝率.570(残り10試合)でゲーム差なしでした)

工藤公康投手が登板拒否ともとれる発言をしていた(工藤公康の「舌禍事件」)

しかも、そんな中、翌日の10月6日、工藤投手が報道陣に対し、

優勝目指してやっているんじゃない。もし中3日で先発して(肩を)故障したら誰が責任取ってくれるのか

いくら優勝争いをしているからって、酷使されるのは、まっぴら御免だ

と、登板拒否ともとれる発言。

すると、この、反乱にマスコミは騒ぎ立て、チームには不穏な空気が漂います。

(また、あるコーチは、「大事なときに自分のことしか考えていない選手がいる」と発言して、火に油を注いでおり、優勝目前の騒動に、ナインも動揺を隠せなかったといいます)

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全選手を集めて「工藤を救ってやってくれないか」と呼びかけていた

そこで、森さんが、すぐに工藤投手を呼び出し、真意を問いただすと、

工藤投手は、

そういうつもりで言ったのではない

と、弁明したそうですが、

工藤投手の真意がどうあれ、この発言を放置したままでは、これまでの120試合で積み上げてきたチームの結束が崩壊してしまうと考えた森さんは、

(実際、一部の野手からは、「そんな投手には、投げてもらわなくても結構だ」と工藤投手に反発する声も上がっていたそうです)

すぐに全選手を集め、その前に工藤投手を立たせると、

誰にも間違いはある。ああ言った、こう言ったと言っても始まらない。でも不用意な発言をしたのは工藤だ。みんなにも迷惑をかけた。謝りたいと言ってるし、監督のオレに免じて許してくれ

彼も一人の人間だ。みんな、工藤を救ってやってくれないか

と、呼びかけ、

工藤投手本人も、発言を「軽率だった」と謝罪したことで、無事、騒動は沈静化したのだそうです。

「森祇晶は西武監督就任3年目もリーグ優勝&日本一となり3連覇を達成していた!」に続く

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