西武ライオンズの監督に就任すると、1年目の1986年から1994年までの9年間で、8度のリーグ優勝、6度の日本一という素晴らしい成績を残した、森祇晶(もり まさあき)さんですが、清原和博選手を甘やかしていたと、しばしば言われています。実際は、どうだったのでしょうか。今回は、森さんと清原選手の関係についてご紹介します。

「森祇晶は監督辞任を発表前に西武球団にリークされていた?」からの続き

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清原和博は鳴り物入りで西武に入団していた

甲子園大会に5季連続で出場し、優勝2回、13本塁打ほか、様々な伝説を残した清原和博選手は、1985年、ドラフト1位で、鳴り物入りで西武ライオンズに入団するのですが、オープン戦では、打率2割2分、本塁打0に終わってしまいます。

そこで、清原選手は、土井正博バッティングコーチとマンツーマンで1日800スイングの猛練習をして開幕を迎えるのですが、森さんは、開幕戦の南海戦(西武球場)で清原選手をスターティングメンバーには入れませんでした。

清原和博が打率1割台に低迷しても一軍で起用し続けていた

しかし、2戦目、7回から途中出場させると、四球を選び、9回2死で迎えた第2打席には、藤本修二投手から初球の内角ストレートを完璧にとらえて左中間の芝生席に飛び込むホームラン。

(8mの逆風をものともしなかったそうで、打たれた藤本投手も「まさか、あの逆風で入るとは・・・」と言葉を失っています)

そして、3戦目も途中出場させると、2安打を放ったことから、レギュラーとしたそうで、その後は、打率が1割台に低迷しても使い続けたそうで、

(多くのコーチや野球評論家が清原選手は二軍でしばらく鍛えるべきだと主張する中、森さんは頑として清原選手を一軍で起用し続けたそうで、同年10月7日のロッテ戦では、ついに4番に起用しています)

森さんは、

清原が二軍なんてありえなかった

清原は他のルーキーとはまるでモノが違った。体も大きかったし、PLの中村順司監督に基本を叩きこまれていて、野球人として高校生離れしていました。

あとはプロの環境とスピードに慣れる期間が必要でしたが、あれだけの素質を持った選手なので、やはり高いレベルの一軍で育てていくべきだと考えた

と、語っています。

森祇晶は優勝を優先するため清原和博を二軍スタートにしたかった?

ただ、一軍打撃コーチだった土井正博さんによると、開幕直前会議で、清原選手を二軍スタートさせるか、一軍に残留させるかの議論となった際、森さんは、どうしても優勝したい思いが強く、オープン戦成績が2割2分で本塁打無しだった清原選手を二軍スタートさせたいと考えていたといいます。

しかし、次世代のスターを育てて欲しいというフロントの方針から、結局、清原選手は開幕一軍スタートとなったのだそうです。

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清原和博を一軍で起用し続けることに迷いがあった?

また、土井さんによると、森さんは、相手投手が左投手の時に清原選手を使い、右投手の時には左打者である片平晋作選手を使いたいと思っていたほか、

1985年4月下旬に、清原選手の門限破りが発覚すると、ミーティングでは、「ケジメだから下に落とさなければ」と言ったそうですが、土井打撃コーチが一人反対し、最終的には近藤昭仁コーチも反対して、清原選手の1軍残留が決まったこともあったそうで、

森さんは、清原選手を一軍で起用し続けることに少し迷いがあったようです。

「森祇晶は清原和博を甘やかしていた?野村克也と広岡達朗のコメントは?」に続く


森さん(左)と西武入団発表時の清原和博さん(右)。

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