小学3年生の時、偶然、道端で拾った漫画を読み、その表現力にカルチャーショックを受けたという、ちばてつやさんは、やがて、自分でも漫画を描き始めると、17歳(高校生)の時には、「児童漫画家募集」という新聞の三行広告を見つけ、本格的に漫画を描くようになったといいます。
「ちばてつやは小3で初めて漫画を読みカルチャーショックを受けていた!」からの続き
母親に漫画を破かれ燃やされていた
小学3年生(8歳)の時、道端に落ちていた豆本サイズの漫画を拾い、初めて漫画を読んだちばさんは、あまりの面白さに、家に帰って、弟たちに、「こんなに面白い本があったぞ!」と見せ、奪い合うように読んだそうですが、
お母さんに、得意気に、「僕が拾ったんだよ」と見せると、お母さんは、漫画に夢中になって勉強がおろそかになると思ったのか、血相を変えてすぐにバリバリッと漫画を破き、夕飯の支度で火をつけていた七輪に入れ、燃やしてしまったのだそうです。
そして、その後は、漫画の「ま」の字を言っただけで怒られ、友達に借りたものすら破られそうになったことから、その後、漫画は友達の家でこっそり読むようになったのだそうです。
(ちばさんの家には漫画は一冊もなかったそうですが、周りの友達はみな、「のらくろ」「冒険ダン吉」など、戦前から漫画を読んでいたそうです)
自分で漫画を描いて弟達に見せていた
そんなちばさんは、小さい頃から絵を描くのが好きだったこともあり、やがて、(両親が仕事をしていて忙しかったこともあり)勉強しているふりをして、こっそり自分でも漫画を描いては、弟たちに見せていたそうで、
母の気持ちを考えると悪いことをしているようで後ろめたい気持ちもありましたが、私にとって漫画を描くことは楽しい遊びだったのでやめられませんでした。
漫画を描くのは好きでしたが、当時はまさか自分が漫画家になるとは思っていませんでした。漫画家という職業も知らなかったし、(雑誌や新聞に掲載されているものは)大きな出版社に写真部や総務部があるように、絵を描くのが得意な人が漫画部に配属されて描いていると思っていたんです。
ただ純粋に、描くのが楽しいから描いていました。友達に絵を描くのが上手な子がいて、その子がつくった『漫画クラブ』という雑誌で連載させてもらったり、一緒に漫画を描いて見せ合ったり。コマで割って読ませて、ページをめくるたびに話が展開していく漫画の世界にどんどん引き込まれていきました。
と、語っています。
(その「漫画クラブ」という雑誌をつくった友達は、由緒あるお寺の一人息子だったため、漫画家になるのを諦めたそうです)
17歳の時に新聞で「児童漫画家募集」の三行広告を見て日昭書店を訪ねていた
そして、17歳の時には、新聞で「児童漫画家募集(東京・神田の日昭書店)」という三行広告を見つけたそうで、日昭書店を訪ねると、
(当時は、貸本漫画が全盛の時代だったため、どこの町内にも貸本屋があり、ちばさんが訪ねて行った日昭書店も、そのような貸本屋専門の小さな出版社のうちのひとつだったそうです)
社長の石橋国松さんは良い人で、プロデューサーの生原稿を見せてくれ、原稿は墨で描く、失敗したらホワイトで消すなど、漫画の描き方の基本を教えてくれ、試しに描いてくるように言ったそうで、ちばさんは本格的に漫画を描き始めたのだそうです。
(最初は、どうしようもない、いたずら描きのような絵だったそうです)