学業第一の両親の方針により、慶應義塾中等部を受験すると、見事合格した、二代目市川猿翁(にだいめ いちかわ えんおう)さんは、中学時代は、教育熱心だった両親の方針に従い、歌舞伎の舞台からは離れていたそうで、お芝居や勉強に打ち込むほか、月に30本も映画を観るなど、充実した日々を送っていたそうです。
「市川猿翁(2代目)は幼少期に出番をカットされ激怒していた!」からの続き
中等部時代は山岳部や演劇部で充実した日々を送っていた
慶應義塾中等部に合格した猿翁さんは、山岳部や演劇部に所属し、学芸会ではお芝居を作ったそうで、3年生の時、演劇部をみてくれていた担任の西村先生が盲腸で入院した時には、先生の代わりに、舞台「エミールと探偵たち」を演出するなど、充実した日々を送ったそうで、慶応時代の10年間で、中等部が一番楽しかったそうです。
ちなみに、成績も良く、クラスでいつも1位か2位だったそうです。
慶應義塾中等部時代は月に30本映画を観ていた
また、月に30本は映画を観るほど映画が好きだったそうで、日曜日に5本、試験の期間中でさえも、オードリー・ヘップバーンの「ローマの休日」、ジャン・ギャバンの「望郷」、イヴ・モンタンの「恐怖の報酬」など、フランス映画やアメリカ映画を観ていたそうで、
(フランスの俳優・ルイ・ジューヴェがお気に入りだったそうです)
猿翁さんは、そんな中学時代について、
10代の多感な時期、歌舞伎界から離れた生活をさせてくれた祖父には、今でも感謝しています。
と、語っています。
慶應義塾中等部時代はほとんど歌舞伎の舞台に出ていなかったが、観ることだけは欠かさなかった
一方、歌舞伎はというと、夏休みに九州巡業で千歳、「二代目段四郎三十三回忌追善」で「釣女」の上臈(じょうろう)を演じたのみだったそうですが、
歌舞伎を観ることは欠かさず、お稽古ごとにも通い、箏(そう)、三味線、胡弓(こきゅう)の三絃(さんげん)を習ったそうです。
高校生になり、再び歌舞伎の舞台に出演するようになっていた
そして、高校生になると、再び、歌舞伎の舞台に出演するようになったそうで、
(ただ、学業第一という親の方針から楽屋入りは授業が終わった後の、夜の部にしか出演させてもらえなかったそうです)
1955年9月には、渋谷の東横ホールで、お父さんの三代目市川段四郎さんと初めて「連獅子」を上演するほか、
1955年11月には、市川染五郎(現在の二代目松本白鸚)さんと、歌舞伎座幕開き前の「子供歌舞伎教室」で、「楼門五三桐(さんもんごさんのきり)」の久吉役
1956年には、初めて暮れの京都の顔見世で「弁慶上使」の腰元しのぶと卿(きょう)の君の2役
1957年11月には、歌舞伎座「荒絹」(志賀直哉作)で阿陀仁役
を演じるなど、精力的に活動したそうです。
ちなみに、「荒絹」に出演した11月には、お家芸の「黒塚」にも初出演したそうですが、この時から手順を覚え始めたそうで、”覚えろ”と言われたわけではなく、自ら見て覚えておかなければと考えてのことだったそうです。
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