1963年5月には、「黒塚」の鬼女を無我夢中で演じて成功させ、「三代目市川猿之助」を襲名したという、二代目市川猿翁(にだいめ いちかわ えんおう)さんですが、ほっとしたのもつかの間、おじいさん(初代市川猿翁)の後を追うように、お父さんの三代目市川段四郎さんが他界して、肉親の後ろ盾を失ってしまったといいます。ただ、それでも、猿翁さんは他門には入らなかったといいます。

「市川猿翁(2代目)は祖父・市川猿之助(2代目)に懇願され猿之助を襲名していた!」からの続き

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父・三代目市川段四郎も祖父・初代市川猿翁の後を追うように他界していた

おじいさん(初代市川猿翁)から猿之助を引き継いで1ヶ月も経たない、1963年6月12日におじいさんを亡くした猿翁(当時は三代目市川猿之助)さんですが、

それから半年も経たない同年11月18日、今度は、お父さんの三代目市川段四郎さんが、おじいさんの後を追うように他界されたといいます。

(実は、お父さんは、かねてから繊毛肉腫を患い(のどと耳の栓の間にガンができたそうです)、おじいさんよりも重病だったそうですが、猿翁さんの猿之助襲名披露公演では、お母さんや周囲の止める声も聞かずにおじいさんと共に口上を務めたそうで、「涙の口上」と言われたそうです)

肉親の後ろ盾を失うも他門に入らなかったため良い役につくことができなかった

こうして、おじいさんの初代市川猿翁さんと、お父さんの三代目市川段四郎さんを相次いで亡くした猿翁(当時は三代目市川猿之助)さんは、肉親の後ろ盾を失い、その後、芸を教わることができなくなってしまったそうですが、

(大幹部の下につけば、役がもらえて苦労はないと分かっていながらも)他門には入らなかったそうで、いろいろな人に睨(にら)まれ、なかなか思うような役にはつけなかったそうです。

祖父と父の一周忌を迎える頃には「猿翁十種」を制定していた

しかし、この時、猿翁(当時は三代目市川猿之助)さんは、かねてより、歴史に名を留めた名優の生き方を目標にしなければいけない、若い時から大役を演じてどんどん修羅場を経験しなければいけない、新しいことへ挑戦しなければいけない、などと考えていたそうで、

おじいさんとお父さんの一周忌を迎える頃には、「猿翁十種」(当時は「二代目猿之助十種」)に、「悪太郎」「黒塚」「高野物狂(こうやものぐるい)」「小鍛冶(こかじ)」「独楽(こま)」「二人三番叟(ににんさんばそう)」「蚤取男(のみとりおとこ)」「花見奴(はなみやっこ)」「酔奴(よいやっこ)」「吉野山道行(よしのやまみちゆき)」を制定し、おじいさんとお父さんの一周忌に当たる追善公演で披露したそうで、

(本来であれば、生前に、おじいさんが選ぶべきものだったそうですが、照れ屋で潔癖症だったおじいさんは、そういうことに手をつけずに亡くなってしまったそうで、猿翁さんが、おじいさんが作った舞踊や新しく演出をつけた演目から選んだのだそうです)

猿翁さんは、「私の履歴書」で、

微力だった私がこんなに早く盛大な会を持てたことは我ながら驚くべきことだった。2日間の公演で演じたのがなんと17役。なせばなるとはいうものの、よくやったと我ながらあきれるほどだ。

と、綴っています。

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他門に入らなかった理由とは?

ちなみに、なぜ、猿翁さんが他門に入らなかったかというと、誰かについて学び、順々に回ってくる役をやる「寄らば大樹の陰」という生き方では、自由な行動ができないというのが第一の理由だったそうです。

(周囲には、六代目市川歌右衛門さん、中村鴈治郎さん、清元の志寿太夫さん、新派の英太郎さんなど、生前、おじいさんが懇意にしていた大幹部の傘下に入るだろうと考えられていたそうですが、猿翁さんによると、実際には、松竹を通して誘いはあったものの、直接は、誰も声をかけてくれなかったそうです)

「市川猿翁(2代目)は春秋会では自ら劇場を借り脚本・演出もしていた!」に続く

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