1981年、9歳の時、十三代目片岡仁左衛門さんに「部屋子」として弟子入りすると、同年、京都南座「勧進帳」で片岡千代丸を襲名した、六代目片岡愛之助(ろくだいめ かたおか あいのすけ)さんは、早くも頭角を現すのですが、血筋を重んじる歌舞伎界で、与えられるのはセリフのない役ばかりで、師匠・二代目片岡秀太郎さんから養子話を持ちかけられると、両親の後押しもあり、悩んだ末に養子になる決意をしたそうで、1992年、19歳の時、大阪・中座「勧進帳」の駿河次郎役などで、六代目片岡愛之助を襲名します。
「片岡愛之助(6代目)は5歳のとき松竹芸能の子役オーディションに合格していた!」からの続き
血筋を重んじる歌舞伎界で与えられるのはセリフのない役ばかりだった
1981年、9歳の時、二代目片岡秀太郎さんに誘われ、歌舞伎界に入ることを決意すると、秀太郎さんの父親でもある十三代目片岡仁左衛門さんに「部屋子(へやご)」として弟子入りし、同年、京都南座「勧進帳」で片岡千代丸を襲名した愛之助さんは、一人前の歌舞伎役者を目指すようになり、中学生の時には、学校に通いながら稽古に明け暮れる毎日を送ると、中学2年生の時には、初めて女形を演じ、歌舞伎役者としての幅を広げるのですが・・・
「血筋」を何よりも重んじる歌舞伎界では、たとえ「部屋子」であっても、町工場で生まれ育った外部の人間である愛之助さんに与えられるのは、セリフのない役ばかりだったそうです。
(「部屋子」とは実子と同じように楽屋で行儀や芸を学べる特別な弟子のこと)
二代目片岡秀太郎から養子になることを持ちかけられていた
そんな生活が高校時代も続いたことから、高校卒業を間近に控えた愛之助さんは、
どれほど才能があったとしても、家柄や血統が重視される門閥中心の歌舞伎界でどこまで活躍できるのか
と、悩むようになったそうですが、
そんな中、師匠でもある二代目片岡秀太郎さんから、
愛之助という非常にいい名前があるから、それを継ぎなさい
と、養子になることを持ちかけられたそうです。
(秀太郎さんの養子になるということは、上方歌舞伎の名門・松嶋屋の正式な継承者として、梨園での地位を確保できることを意味していました)
両親は二代目片岡秀太郎の養子になることを快く賛成してくれた
ただ、それは、両親との決別を意味していたことから、愛之助さんは悩んだそうですが、
お父さんは、
一生の仕事にする気なら最高の環境に行きなさい
一生それでメシ食っていくのなら、行ってこい。(そこからは)主役になろうが脇役になろうが、お前の腕次第。レールには乗せたから、あとは自分で走りなさい
お母さんも、
やりたいことをやりなさい
と、言ってくれたそうで、
愛之助さんは、養子の話を受ける決意をすると、1992年、19歳の時、二代目片岡秀太郎さんの養子になり、大阪・中座「勧進帳」の駿河次郎役などで、六代目片岡愛之助を襲名したのでした。
血筋を重んじる歌舞伎界での息子の将来を案じた母親が二代目片岡秀太郎に相談していた
実は、血筋を重んじる歌舞伎界で、高校卒業を間近に控えた息子の将来を案じたお母さんが、大学に進学させた方がいいのではないかと真剣に悩み、愛之助さんに内緒で、愛之助さんの師匠の秀太郎さんの元へ訪れ、どうすべきか相談していたそうで、
秀太郎さんは熟考の末、愛之助さんを自らの養子として迎え入れることを提案していたのだそうです。
ちなみに、某歌舞伎関係者は、
長男である愛之助さんを養子に出すのは両親にとってつらい決断だったでしょうが、息子の将来のためだと心を決めて快く送り出した。愛之助さんも両親の思いを汲み取り“絶対に歌舞伎で成功する”と決意を新たにしたといいます
愛之助さんの両親の某知人は、
愛之助さんが家を出てからも両親は時間が許す限り舞台に足を運び、“わが子”の活躍を見守りました。みるみる成長する愛之助さんを目の当たりにして、お母さんが『私があの子にしてあげられることはもうなくなりました』と嬉しさと寂しさが入り交じった表情で語ったことが忘れられません
と、語っています。
「片岡愛之助(6代目)は「半沢直樹」の黒崎駿一役でブレイクしていた!」に続く