小学5年生の時、少年野球チーム「リトル(南海)ホークス」に入団し、本格的に野球を始めると、町内の大人の野球チームにも誘われていたという、岡田彰布(おかだ あきのぶ)さんは、中学入学後も野球部に入ると、ホームランを連発して注目を集め、中学3年生の時には、中学野球大阪府大会でチームの優勝に大きく貢献するほか、高校1年生の時にも、大阪大会決勝で先制の2ランホームランを放ち、甲子園出場に大きく貢献しています。

「岡田彰布は少年時代「リトル(南海)ホークス」で本格的に野球を始めていた!」からの続き

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中3の時には明星中学校で中学野球大阪府大会で優勝

小学4年生の夏、「(南海)ホークス子供の会」に入ると、(南海ホークスの本拠地である)大阪球場での試合で本塁打を放つ活躍をし、小学5年生になると、少年野球チーム「リトルホークス」で本格的に野球を始めた岡田さんは、

1970年、明星中学校に進学してももちろん野球部に入部しているのですが、ここでも、ホームランを連発して注目を集め、1972年、中学3年生の時には、中学野球大阪府大会で明星中学校の優勝に大きく貢献します。

高1の時から大阪大会決勝で先制のツーランホームランを放ち優勝に大きく貢献していた

そんな岡田さんは、1973年4月、明星中学校卒業後は、「私学7強」の一角を担っていた大阪府屈指の強豪校・北陽高校に進学すると、200人以上が入部する中、1年生の夏から左翼のレギュラーに定着。

(当時の北陽は1年生をレギュラーにしない方針だったため、異例の抜てきでした)

そして、大阪大会決勝のPL学園戦では、7番・レフトで出場すると、先制のツーランホームランを放つなど、北陽高校の地区優勝(甲子園出場)に大きく貢献しているのですが、

(「私学7強」とは、1960~1980年代に甲子園で活躍した大阪の私学、PL学園、浪商(現・大体大浪商)、北陽(現・関大北陽)、近大付、大鉄(現・阪南大高)、興国、明星の7校のこと)

岡田さんは、その時のことを、

あのPLに勝った。これで甲子園や!1年からいきなり目指すところに来れた。うれしかったよ。そら、そうよ。激戦の大阪大会を勝ち抜いたわけですよ。これで甲子園、当然、日本一になれると思ったわけよ。

と、語っています。

(岡田さんは、その時、まだ15歳で、あどけなさが残る風貌から、チーム内では、「みなしごハッチ」と呼ばれていたそうです)


昆虫物語みなしごハッチ(1970)

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エスカレーター式の明星高校に進学せず北陽高校に進学した理由とは?

ちなみに、岡田さんがエスカレーター式の明星中学から明星高校に進学せず、北陽高校に進学したのは、北陽高校からスカウトされたからだそうですが、

かつては、明星高校も、北陽高校同様、大阪府屈指の強豪校だったのですが、学業を優先する方針となり、特にPL学園に勝つことができなくなっていたことから、岡田さんは、ライバル校だった北陽高校なら甲子園に行ける可能性が高いと判断し、北陽高校に進学したそうで、

岡田さんは、

明星中学からどこの高校に進むか。いろいろ考えた15歳のころだった。何校かから誘いを受けたけど、オレが決めたのは北陽高校やった。当時、大阪は全国随一の激戦区で、それも私学7校が相当強かった。

全国的にも有名なPL学園、それに近大付、興国、大鉄、浪商、明星、そして北陽。この7校が大阪を席巻し、夏の甲子園はこの中から勝ち上がるというのが続いていた。

オレはその中で北陽を選んだ。中学時代の仲間と「北陽で甲子園に行こうや」と話して決めたんやけど、そら強かったよ、北陽は。

と、語っています。

(明星高校もかつては甲子園の常連校で1963年には夏の甲子園で優勝しており、周囲は、岡田さんが明星高校に進学すれば、また甲子園で活躍できると期待していたそうですが)

「岡田彰布の甲子園出場は高1の時の1回(高2の時は高校が不祥事で出場辞退)!」に続く

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