1995年、オリックスで現役引退後は、再び、仰木彬監督に誘われ、オリックスの二軍助監督兼打撃コーチとして、2年間、選手の見極め方と育成法を勉強すると、1998年には、吉田義男監督の要請により、二軍助監督兼打撃コーチとして、古巣・阪神に復帰し、1999年には、野村克也監督のもと、二軍監督兼打撃コーチ、2000年には、二軍監督(専任)となった、岡田彰布(おかだ あきのぶ)さんは、2003年には、星野仙一監督のもと、一軍内野守備走塁コーチとなっているのですが、2004年には、星野監督の後任として、阪神の一軍監督に就任すると、監督就任2年目の2005年には阪神タイガースをリーグ優勝に導きます。
「岡田彰布は二軍助監督兼打撃コーチとして阪神に復帰していた!」からの続き
阪神タイガース監督就任1年目の2004年は4位
2003年、阪神タイガースは星野仙一監督のもとリーグ優勝を果たしているのですが、オフには、星野監督が健康上の理由で監督を勇退。
これに伴い、急遽、岡田さんは、2004年、星野監督の後任として、阪神の一軍監督に就任するのですが、1年目は、コーチが入れ替わったことと、一軍監督の準備・経験不足から、打順の組み合わせと投手ローテに迷いがあったことが原因で、4位に終わってしまいます。
阪神タイガースの監督就任は前任・星野仙一監督が健康問題で退任したことによる急転直下の出来事だった
ちなみに、2001~2004年、阪神の球団社長を務めた野崎勝義氏は、岡田さんが一軍監督に就任した経緯について、
野村監督が、沙知代夫人の脱税問題で退任する際、久万(俊二郎)オーナーは岡田の昇格を示唆したが、結局、再び外部招聘で星野(仙一)に決定した。時期尚早として内部昇格できなかった岡田には外から勉強させようとNHKの解説者のポストを用意するという話もあった。
ですが、本人は『野球人はユニフォームを着てナンボや』という仰木さんの言葉を胸に固辞し、阪神に残った。その後、星野が健康問題で退任したことで、ようやく岡田の監督の番が回ってきたのです
と、語っており、
急転直下の監督就任だったことが伺えます。
鉄壁のリリーフ陣「JFK」を完成させ6回で試合を終わらせていた
しかし、岡田さんは、監督就任2年目の2005年には、ジェフ・ウィリアムス投手、藤川球児投手、久保田智之投手のリリーフ3人が7回、8回、9回を担う、勝利の方程式「JFK」を完成させると、
6回終了時点で勝ち越している試合は、ほとんど負けず、この判で押したような必勝パターンは6月の交流戦になると、ますます拍車がかかって、野球を6回で終わらせるまでに進化させ、
当時、楽天の監督だった野村克也氏をして、
いつからルールが変わったんや。阪神戦だけ、6回で攻撃が終わりや。向こうは9イニング、攻撃があるけど、ウチは6イニングしか攻撃がない
と、言わしめています。
監督就任2年目の2005年は「JFK」と金本知憲、矢野輝弘、赤星憲広、今岡誠らの活躍でリーグ優勝
すると、2005年は、岡田さんは、「JFK」と、金本知憲選手、矢野輝弘(現・矢野燿大)選手、赤星憲広選手、今岡誠(現・今岡真訪)らの活躍で、9月29日に優勝を決めたのでした。
(最終的には2位の中日に10ゲーム差をつける圧倒的な優勝でした)
ちなみに、岡田さんとともに、JFKを作り上げた、当時、投手コーチだった中西清起氏は、
(岡田さんは)勝負勘が良く、選手への指示はシンプル。この長所はずっと変わりません。一方、現在(2023年)の阪神は『JFK』のような鉄壁のリリーフを構築できる状況にはありませんが、その代わり調子のいい投手を連投にならないように工夫しながら起用している。状況に応じた柔軟な采配ができることも岡田野球の強みです
当時、2軍バッテリーコーチを務めていた中尾孝義氏は、
6回までリードしていれば勝つ可能性が高かったですし、岡田監督がいろいろと策を講じなくてもゲームをつくれました
と、語っています。
「岡田彰布は2005年審判の判定に抗議し選手全員を引き上げさせていた!」に続く
2005年リーグ優勝を果たし、胴上げされる岡田さん。