東洋大学野球部のセレクションに合格するも、またしても、高校時代同様に野球部の封建的な雰囲気に嫌気が差し、退部した後、大学自体も半年で中退したという、落合博満(おちあい ひろみつ)さんは、その後、高校時代から住まわせてもらっていたお姉さんのアパートを飛び出し、公園で野宿をするなど、ホームレスのような生活を送っていたそうですが、やがて、郷里・秋田のボウリング場でアルバイトをしたことがきっかけで、プロボウラーを目指したといいます。

「落合博満は東洋大学を中退しホームレスのような生活をしていた!」からの続き

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ボウリング場でアルバイトをするうちにプロボウラーを目指すように

東洋大学を中退後は、秋田県立秋田工業高等学校時代から住まわしてもらっていたお姉さんのアパートを飛び出し、ホームレス同然の生活を送っていたという落合さんは、その後、郷里の秋田に戻り、ぶらぶらしていたそうですが、

ボウリング場で支配人を務める長兄に勧められ、そこでアルバイトを始めると、このことがきっかけで、ボウリングに熱中するようになり、プロボウラーを目指すようになったそうです。


アベレージスコアは、なんと、286だったとか。

プロボウラーの受験料3000円を交通違反で失い、プロボウラーを諦めていた

そして、いざ、プロテスト当日・・・

プロテストを受けに行く途中、交通違反をおかしてしまい(初心者ドライバーを示す若葉マークの貼り忘れ運転だったそうです)、罰金3000円を食らったそうで、

プロボウラー試験の受験料の為に用意していた、なけなしの3000円を失い、プロボウラーを諦めたのだそうです。

(落合さんは、兄姉から野球で活躍することを期待されていたのは痛いほど分かっていたそうですが、大学を中退して郷里に戻っても、兄姉は一切責めず、何も言わず見守ってくれたそうです)

野球への熱意が再び高まり高校時代の恩師で野球部部長の安藤晃を訪ねていた

そんな落合さんは、やがて、地元の草野球チームでプレーするようになると、(ボウリングブームが下火になったこともあり)野球への熱意が再び高まってきたそうで、

20歳を目前にして、そろそろ働かねばと思ったこともあり、秋田県立秋田工業高等学校時代の恩師である野球部部長の安藤晃さんのもとを訪ね、

(東洋大学の進学時も安藤さんがお膳立てしてくれたそうです)

私の人生は野球しかない。道を開いてください

と、頭を下げると、

安藤さんには、

(次は中途半端に投げ出さずに)本気でやれるか

と、ただされたそうで、

今度は本気です

と、答えると、

安藤さんに、社会人野球部を持つ、東京芝浦電気の府中工場野球部(東芝府中)のセレクションの受験を勧められたのだそうです。

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東芝府中野球部のセレクションでは桁違いのバッティングで合格

こうして、落合さんは、1973年11月1日、東芝府中のセレクションを受けると、見事合格したそうですが、当時、落合さんと一緒にセレクションに参加した人の話によると、

セレクションは、高校3年生が多く、落合さんとは2、3歳しか変わらなかったそうですが、落合さんはふてぶてしく、ずっと年上に見えたそうです。

また、セレクションが始まり、みんなでキャッチボールを始めた時には、落合さんはそれほど目立つことはなかったそうですが、

いざバッティングになると、ショートフライかと思われた打球がそのままフェンスを越えてホームランになったそうで、その桁違いのバッティングには、皆とても驚いたといいます。

「落合博満は東芝府中でいきなり4番に抜擢されていた!」に続く

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