ロッテ入団1年目は、初キャンプでいきなり、元ロッテ監督の金田正一さんに、バッティングを痛烈にダメ出しされるほか、山内一弘監督にも矯正するべく指導を受けたという、落合博満(おちあい ひろみつ)さんですが、入団3年目の1981年には、早くも首位打者を獲得します。

「落合博満は山内一弘の打撃指導を後年理解できるようになっていた!」からの続き

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入団3年目の前期シーズンにはホームラン&打点がチープトップ

1978年、入団1年目は、二軍で抜群の成績(打率3割2分4厘(203打数66安打)8本塁打40打点)を残し、一軍に昇格するも、一軍では、ミスター・ロッテこと有藤道世選手の控え三塁手の扱いで、打率2割3分4厘、2本塁打に終わったという落合さんですが、2年目は、一軍でも、打率2割8分3厘、15本塁打という成績を残すと、

3年目の1981年には、開幕スタメン(7番・セカンド)で、いきなり3安打を放ち、その後、6番に定着すると、前期シーズンは、打率3割1分7厘、15本塁打、45打点(ホームランと打点はチームトップ)の活躍を見せます。

史上最強の6番打者と称されるように

すると、マスコミたちは、川崎球場(当時のロッテの本拠地)の左翼場外へ150メートル弾、右翼席にも軽々とスタンドインさせる、ずば抜けた落合さんのパワーに、「ロッテのポパイ?薄給の怪力バッター」(週刊新潮1981年7月23日号)、「ニックネームは“孫悟空”。重いバットを如意棒のように軽々と振りまわす」(週刊ポスト1981年8月28日号)などと、騒ぎ始め、

落合さんは、「史上最強の6番打者」と称されるようになります。

(野球ファンは、日本ハムのソレイタ選手や阪急のケージ選手ら外国人パワーに挑む、無名の日本人選手の出現に驚いたそうです)

入団3年目の1981年には首位打者を獲得

さておき、落合さんは、7月22日には、初の4番に起用されると、打率3割4分(4打数2安打)で、パ・リーグの打率トップに立ち、以降、ずっと、打率トップをキープすると、

9月には、一時、日本ハム・島田誠選手や、西武の新人・石毛宏典選手に抜かれるも、最終的には、打率3割2分6厘で首位打者のタイトルを獲得したのでした。

(落合さんは、この年、全130試合のうち127試合に出場して、初めて規定打席に到達しているのですが、33本塁打するほか、4番で出場した10試合の打率は、驚異の4割6厘を記録しています)

入団3年目で27歳になっていた

ちなみに、落合さんは、この年、プロ入り3年目も、年齢はすでに27歳になっていたことから、

野球は、そんなに長くできるものじゃない。その間に何か残したい

と、思うようになっていたそうですが、

実際、首位打者のタイトルを獲得した時には、

自分がゲームでヒットを打てばいい。数字は勝手に動き回るだけ。自分の持ち味をキープしていけば、無欲の勝利が転がり込んでくるかもしれませんが

と、そっけなく語っています。

入団3年目の1981年には西本幸雄監督の推薦で初の球宴(オールスター)出場

そんな落合さんは、この年(1981年)、西本幸雄監督の推薦により、初めて球宴(オールスター)出場を果たしているのですが、

落合さんは、自身のyoutube「落合博満のオレ流チャンネル」で、

西本(幸雄)さんが監督推薦で選んでくれて。甲子園球場の初っ端の試合、まさかスタメンじゃないだろうと思っていたら、スタメンに使ってくれて

と、語っています。

(第2戦では、西本監督に「これからのパ・リーグを背負って立つ男だから」と、全パの4番で起用されています)

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初球宴(オールスター)のスタメン第1打席は全身痙攣を起こしていた

ちなみに、落合さんは、スタメン第1打席目、阪神の小林繁投手の投げた球を振った瞬間(セカンドゴロ)、極度の緊張で全身痙攣(けいれん)が起こり、やっとの思いでなんとか一塁まで走ったそうですが、

(痙攣はベンチに戻って来ると治ったそうです)

この時は、腕、足、背中と、全部が痙攣を起こして立っているものやっとという状態だったそうで、このような痙攣は、この時が最初で最後だったそうです。

(部分的に痙攣を起こしたことは何度かあったそうです)

「落合博満は三冠王を3回(NPB唯一)記録していた!」に続く

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