中日に移籍して4年目の1990年は、打率2割9分、34本塁打、102打点で、本塁打と打点の二冠王に輝いた、落合博満(おちあい ひろみつ)さんですが、このオフの契約更改はなかなかまとまらなかったそうで、ついに、1991年2月15日、日本人選手として初となる、年俸調停を申請しています。

「落合博満は日米野球の1打席が原因で三冠王が獲れなくなっていた!」からの続き

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日本人選手で初めて年俸調停を申請していた

当時、推定年俸1億6500万円だった落合さんは、契約更改で、

(巨人の)クロマティが2億円。その働きに自分も遜色はないはずだ(34本塁打、102打点で本塁打と打点の二冠王)

と、1億2000万円アップの3億円を希望したそうですが、

(最終的には2億7000万円まで譲歩)

球団は2億2000万円が限度し、交渉が難航したそうで、キャンプの時期になっても話はまとまらず、ついに、1991年2月15日、落合さんは、日本人選手として初めて年俸調停を申請しています。

調停の結果は球団提示額の2億2000万円だった

ただ、3月8日、結局、球団提示額の2億2000万円となったそうですが、

落合さんは、

いいとか悪いとかは別さ。多くもらうに越したことはなかったが、勝ったとか負けたとかの次元で見られるのがイヤだった。時期がくればわかってくれる人がいるはず。それでいいと思う

と、語っています。

(年俸調停は、互いの希望額を提示したうえで第三者に判断を委ねる仕組みなのですが、完全に形骸化していたそうで、1972年に阪神のマックファーデン選手が年俸調停に踏み切ったことがあったものの、日本人選手は球団が提示した額に無条件に従わなければならないという暗黙のルールがあったそうで、年俸調停はチームの和を乱す自分勝手な行動と見られていたそうです)

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1991年オフには3億円で契約更改

それでも、落合さんは、翌1991年には、37本塁打で2年連続本塁打王となったうえ、首位打者は獲得できなかったものの(ヤクルトの古田敦也選手に3毛差で及びませんでした)打率3割4分をマークし、このオフには、3億円で契約更改しています。

ちなみに、落合さんは、その際、三冠王と優勝を条件に、球団から4億円の約束を取り付け、

4億円はあくまで叩き台

と、語っています。

「落合博満は日本人選手で初めてFA宣言していた!」に続く

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