長男・一茂さんから、家族揃って一度も食事をしたことがない等、家庭を顧みなかったことや、長年、絶縁状態であることが明かされた、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、長女と次男についても、取材で聞くことがNGだと言われてます。
「長嶋茂雄は息子(長男)の長嶋一茂と絶縁状態!その理由とは?」からの続き
娘(長女)の有希は重度の精神障害者?引きこもり?薬物中毒?
長嶋さんの長女は、有希さんといい、芸能関係者ではないそうですが、有希さんに関しては、様々な噂が飛び交っているそうで、
まず、一つ目は、「重度の精神障害者」だという話。そのため、養護学校に入っており、社会に出るための訓練として「工場で働いていた」と言われています。
二つ目は、「うつ病」「引きこもり」という話。
ただ、長嶋家の長女が「うつ病」「引きこもり」などの状態であることが公になるとマズイため、海外で暮らしていると噂されたこともあるのですが、本当は日本にいるとも言われています。
そして、三つ目は、「薬物中毒」で社会復帰できない、という話。
有希さんは、もともと、長嶋さんの資産管理会社「オフィスエヌ」で役員を務めていたそうですが、2010年10月、「週刊現代」により、次女で社長の三奈さんに突然解任されたと報じられており、その理由というのが、精神障害などの病気でトラブルが続いたためと言われています。
娘(次女)は長島三奈
次女は、1968年6月3日に誕生した、元テレビ朝日のスポーツ記者でタレントの長島三奈さんで、
(三奈さんと弟・正興さんは、姓を「長島」と表記しています)
長嶋さんと次女の三奈さん。
三奈さんは、田園調布雙葉中学校・高等学校を経て、日本大学文理学部哲学科を卒業後、1991年にテレビ朝日に入社すると、スポーツ局で記者として活動し、「ニュースステーション」のスポーツコーナーや、「長島三奈の熱闘!スポーツM18」でキャスターを務めていたのですが、2000年3月に一旦、退社。
その後、2001年2月に、再びテレビ朝日に契約社員として入社すると、2014年1月、テレビ朝日との契約終了後は、フリーとして活動しています。
ちなみに、お母さんの亜希子さんが他界した後は、長嶋さんの看病を担っているそうですが、兄・一茂さんや姉・有希さんとの確執が噂されています。
息子(次男)の長島正興は元レーシングドライバー
次男は、1970年9月26日に誕生した、元レーシングドライバーで、現在は環境問題の仕事や、飲食店を経営しているという、長島正興(ながしま まさおき)さんですが、ほとんど情報がなく、詳しいことは不明です。
(正興さんと姉の三奈さんは、姓を「長島」と表記しています)
次男の長島正興さん。
ちなみに、長嶋家について、某ベテランプロ野球担当記者は
亡くなった一茂の母、そして、若いころ海外に留学に行っていた姉はいろいろな噂があったようで、その存在すらアンタッチャブルと見る球界関係者やメディア関係者は多かった。
一茂の弟はもともとレーサーで現在は飲食店を経営しているが、なぜか、その弟のことを父親に聞くのはNGだった。一茂と三奈の関係に触れるのもタブーだが、国民的大スターだった長嶋茂雄氏の家庭がここまでベールに隠されていたのは謎だった。
ただ、一茂がテレビ番組でいつからか奔放な発言をするようになったのは、孤立してしまった自分を鼓舞するための“自己武装”に思えてならない
と、語っており、長嶋家の闇が深いことが伺えます。
さて、いかがでしたでしょうか。
長嶋茂雄さんの、
- 年齢は?出身は?身長は?本名は?
- 「長嶋」?「長島」?どっち?
- 現在は「長島」
- 幼少期は健康ですくすく育っていた
- 小学生の時は小柄で足が速かった
- 小学生時代には戦争となるも空襲らしい空襲には遭わなかった
- 戦時中には「B29」に向かって石を投げつけたことがあった
- 小学4年生の時に玉音放送を聞いて終戦を知る
- 敗戦後は野球に夢中になる
- 千葉県は野球と縁が深い土地だった
- お兄さんに誘われて野球チーム「ハヤテ・クラブ」で球拾いをしていた
- お父さんに新品のグローブを買ってもらい嬉しくてたまらなかった
- 野球チーム「ハヤテ・クラブ」に入るも毎日ビー玉で野球のボール作りをしていた
- 竹で作ったバットを使用していた
- 進駐軍のゴルフボールで野球のボール作りをするようになっていた
- 小学5年生の時には得意の俊足で陸上競技でも優勝していた
- 中学校で山本薩夫監督映画「真空地帯」の撮影が行われていた
- 山本薩夫監督映画「真空地帯」の撮影の迫力に驚く
- 中学1年生の秋には野球部でレギュラーに
- 中学対抗野球大会では俊足を飛ばしランニングホームランでチームを逆転優勝に導いていた
- 中学校の電車通学の第一日目にケンカ騒ぎを起こしていた
- 中学2年生の頃から急に背が伸びていた
- 中学時代は弁当だけでは足りず駄菓子屋でコッペパンを買って食べていた
- 中学時代は担任・佐藤裕善先生を慕っていた
- 中学の担任・佐藤裕善先生が一度だけ激怒したこととは?
- 中学3年生の時には卒業記念に担任の佐藤裕善先生に寄せ書きした整理ダンスを贈っていた
- 野球部で一番仲が良かった高橋君にも手紙を贈っていた
- 佐倉中学校卒業後は兄弟校である佐倉一高に進学しようと思っていた
- 父親は長嶋茂雄が千葉一高に進学することを希望していた
- 佐倉一高に進学することを父親に許してもらう
- 「佐倉一高野球部の練習はスパルタ式だった」
- 高1でレギュラーになり高2で4番に選ばれていた
- 高校時代もぐんぐん背が伸び続けていた
- 高校2年生の時にはプロ野球の試合を見に後楽園球場に通っていた
- 「指定席」は外野フェンス沿いのグリーンボックスだった
- 一流選手たちのバッティングをじっと観察して技術を盗もうとしていた
- 自宅の庭の柿の木の下でプロ野球の一流選手のバッティングを真似て素振りしていた
- 自宅の庭の柿の木の下で自分で実況中継しながら素振りしていた
- 自宅の庭の柿の木の下で「ジャイアンツの4番」になりきって素振りしていた
- 高校時代はセンター方向にしか打てなかった
- 打球がセンター方向にしか打てなかったため後方にある講堂の屋根瓦をいつも砕いていた
- 野球部長の井原善一郎に角度を変えて打つことを懇願されるも技術が追いつかなかった
- ショートの守備ではエラーを連発していた
- 5回目のトンネル後、ショートからサードに変えられていた
- サードでの思いがけないファインプレーで「サード・長嶋」となった
- 南関東大会に千葉代表校として出場決定
- 野球部長の井原善一郎から新しいバットをプレゼントされていた
- 保護者たちの熱が上がり選手たちも高揚していった
- 南関東大会では家族の誰も見送りに来てくれなかった
- 父親が仕事の都合で球場に応援に来れないと知りがっかりしていた
- 大宮球場へ向かうバスの中では少し父親を恨んでいた
- 佐倉一高は南関東大会当日思いがけないアクシデントに見舞われていた
- レギュラー3名を欠く佐倉一高は苦戦を強いられていた
- センターバックスクリーンに叩き込む超特大ホームランを放つ
- 父親に超特大ホームランを見て欲しかったと思っていた
- 父親は内緒で大宮球場に応援に来てくれていた
- 実は父親は外野の隅で声を張り上げて応援してくれていた
- 巨人軍(読売ジャイアンツ)のスカウト・若林俊治がスカウトに乗り出していた
- 巨人軍(読売ジャイアンツ)のスカウト・若林俊治は大宮球場で長嶋茂雄が放ったホームランを間近で見ていた
- 巨人軍(読売ジャイアンツ)のスカウト・若林俊治は長嶋茂雄を諦められなかった
- 巨人軍からのスカウトを知り有頂天になるも進学を希望する父親に反対されていた
- 富士製鉄室蘭野球部(ノンプロ)監督の小野秀夫が自宅にスカウトに来ていた
- 父親の意向で立教大学に進学することに
- 父親の気持ちを知り感動していた
- 父親は巨人軍(読売ジャイアンツ)からオファーがあったことを内緒にしていた?
- 立教大学から野球部推薦入学のセレクションへの案内状が届く
- 立教大学野球部推薦入学のセレクションに参加
- 立教大の推薦セレクションではほとんど無名だった
- 立教大の推薦セレクションには本屋敷錦吾も参加していた
- 本屋敷錦吾のしなやかな身のこなしに見とれていた
- バッティングで「鬼の砂押(監督)」を釘付けにしていた
- 紅白試合で「紅軍」の選手に選ばれる
- 「白軍」のピッチャー・杉浦忠はまだ無名の高校生だった
- 「白軍」のピッチャー・杉浦忠から3安打を放つ
- 推薦2位で立教大学に合格
- 夕食後は一人だけ夜間練習を命じられる
- 1時間近くひたすら声を出す練習を命じられていた
- 「鬼の砂押」による「球なしノック」の練習が1時間続いた
- 球なしノックの後は暗闇の中でのキャッチボール練習が始まる
- ボールに石灰を塗るも暗闇の中ではよく見えなかった
- 暗闇の中でノックを命じられる
- 暗闇の中でボールはほとんど見えなくなっていた
- 砂押監督から暗闇の中ボールを素手で捕るよう怒鳴られていた
- 砂押監督から30分後に自宅に来るよう言われると・・・
- 砂押監督には重いマスコット・バットでスイングさせられる
- 砂押監督に見込まれ特別に特訓されていた
- 砂押監督には暇さえあれば走らされていた
- 凄まじい回数の素振りを繰り返していた
- 砂押監督のひたむきさに惹かれていった
- 神宮球場への出場を夢見て歯を食いしばって練習に励んでいた
- 春のリーグ戦ではエラーし試合はさんざんな結果になっていた
- 新人リーグ戦を前に父親危篤の電報を受け取る
- 父親は寝たきりの病床で春の六大学野球リーグのラジオばかり聴いていた
- 臨終の父親の手をさすりながら呼びかけ続けた
- 父親が死去
- 父親の墓前に日本一のプロ野球選手になることを誓う
- 父親の死後は家計を助けるためプロ入りを考えていた
- 立教大学を中退してのプロ入りを家族に反対されていた
- 父親の死後はこれまで以上に練習に励んでいた
- 砂押監督のもとで重いバットでのスイングを続けていた
- 父親との約束を守るため一心不乱にバットを振っていた
- 実力がついていくことが分かり野球が楽しくて仕方なかった
- 上級生から因縁をつけられるも真っ向勝負を挑んでいた
- 退学処分も覚悟のうえだった
- 同級生たちが加勢のため集まってきてくれた
- 1週間の謹慎処分を受ける
- 先輩の大沢啓二に砂押監督が辞任するよう頼んでいた?
- 杉浦忠と共に中日ドラゴンズの球団事務所に入団を懇願していた?
- 自伝では自身の砂押監督排斥運動への関与を暗に否定
- 通算7本塁打のタイ記録を打ち立てるもマスコミの存在に苦しんでいた
- マスコミのカメラのシャッター音や新聞記事に平静を保つことが難しかった
- 最終試合の前日は目が冴えてなかなか眠れなかった
- 最終戦当日は弱気にならないよう自分自身に言い聞かせていた
- 緊張のあまり立教大学の打線は振るわずにいた
- チームメイトの太いタイ・カッブ型のバットを借りていた
- 対戦相手の慶應義塾大学は新記録を作られないようボールを散らしてきた
- 5球目に勝負をかけていた
- 東京六大学野球の新記録8本塁打達成
- 当初は南海ホークスに入団するつもりだった?
- 先輩の大沢啓二は激怒
- 巨人に入団した理由とは?
- 最初から巨人に入団すると決まっていた?
- 国鉄スワローズのエース・金田正一に4打席4三振を喫していた
- 金田正一の球を打ち砕くことばかり考えていた
- 金田正一との対戦成績
- プロ入り1年目から足の速さで活躍するも・・・
- 本塁打を放つも一塁ベースを踏み忘れてピッチャーゴロになっていた
- 新人王を獲得
- 新人の年から全試合全イニング出場していた
- 天覧試合では天皇陛下に期待されていることを知り足の震えが止まらなかった
- ピッチャーの藤田元司は何かを伝えようとしていた
- 緊張のあまり声がかすれていた
- 阪神に先制されていた
- 阪神のキャッチャー・山本哲也からは気迫を感じていた
- レフトスタンドへ同点のホームランを放つ
- 前日の夜はルイスビルのバットにお祈りし枕元に置いて寝ていた
- 巨人のエース・藤田が次々と打たれる
- 巨人のエース・藤田は肩を痛めていた
- 阪神に逆転された焦りから見逃しの三振していた
- ルーキー・王貞治が同点ホームランを放つ
- 王貞治は大物のルーキーだった
- 王貞治はミート打法ながら時折りとてつもない大飛球も放っていた
- 阪神はルーキーの村山実がリリーフとして登板していた
- 前夜は村山実に抑え込まれていた
- 9回裏の打席が最後のチャンスと思っていた
- 9回裏の村山実との対決の詳細
- 9回裏の5球目が最後の勝負だと確信していた
- 村山実から決勝のサヨナラホームランを放つ
- ロイヤルボックスを見上げ再び足が震えるのを感じていた
- ボール半個分の狂いが明暗を分けていた
- 体力の衰えを痛感していた
- ヤクルト戦では王貞治を5打席連続で敬遠され自分と勝負されていた
- 川上哲治監督から事実上引退勧告を受けていた
- 右手薬指を骨折し全治1ヶ月と診断されていた
- 打率がみるみるうちに下がっていった
- 現役を引退
- 最終打席はショートゴロ併殺打
- プロ野球選手(現役)時代の打撃成績
- 首位打者6回、ホームラン王2回、打点王5回ほかタイトル多数
- シーズン打率3割以上11回ほか記録多数
- 野球殿堂、新人王、ベストナイン16回ほか表彰も多数
- 背番号
- 現役引退後すぐ監督にはなりたくなかった
- 監督就任1年目は球団史上初となる最下位
- 最下位の最大の原因は自身の引退だった
- 川上哲治監督時代はV9と引き換えに若手の育成が疎かになっていた
- 兄貴分から指揮官となり態度が変わったことから選手たちに反発されていた
- 選手たちから監督として認められない焦りと苛立ちで荒れていた
- 川上哲治監督に現役引退と次期監督就任を迫られていた
- 川上哲治前監督のアドバイスを完全に無視していた
- 川上哲治前監督の管理野球を全否定し「クリーン・ベースボール」をスローガンにしていた
- 若手投手・新浦寿夫を積極的に育成していた
- 若手投手・新浦寿夫をファンのヤジから守るため三塁のベースコーチに立っていた
- 新浦寿夫が大黒柱に成長
- 補強と育成により2年連続リーグ優勝を果たすも日本一にはなれなかった
- 当時の巨人には日本一でなければ勝ったことにはならないという暗黙の了解があった
- 2年連続リーグ優勝から一転低迷するほか「江川卓・空白の一日」事件で批判の矢面に立たされていた
- 西本聖と角三男に20発に及ぶ平手打ちをしていた
- 若手を鍛え上げるために伊東スタジアムで異例のキャンプを行っていた
- 「地獄の伊東キャンプ」では選手たちは血反吐を吐いていた
- ヘッドコーチに招いた青田昇が取材中に記者に暴言を吐き辞任
- 長嶋派のコーチ11人がフロントにより解任されていた
- 川上哲治に監督を解任されていた?
- 川上哲治の名前を口にするのも嫌い川上がOB会会長になった後はOB会を欠席していた
- 巨人軍監督を解任させられた後はスポーツ全般のリポーターとして世界中を飛び回る
- ナベツネ(渡邉恒雄)からの要請で巨人軍の監督に再登板
- 第一次政権とは打って変わって、選手とは距離を置き、試合の采配に専念する大リーグ方式を採用
- 中日と勝率が並び最終戦が優勝決定戦となっていた
- 中日との優勝決定戦(10.8)前夜には槙原寛己と桑田真澄を呼び出していた
- 中日との優勝決定戦(10.8)前のミーティングでは気合を入れていた
- 中日との優勝決定戦(10.8)では落合博満のホームランで先制
- 落合博満のタイムリーで逆転し、村田真一、コトー、松井秀喜のホームランで追加点
- 斎藤雅樹は試合途中で内転筋を痛めるもテーピングして投げていた
- 中日・立浪和義の捨て身のプレーで意気消沈していた中日のベンチに再び火がつくも・・・
- 桑田真澄が3イニングを無得点に抑え優勝
- 落合博満と抱き合って優勝を喜んでいた
- 西武ライオンズを下し監督初就任から20年の月日を経て日本一を達成
- 1995年は大型補強も大型打線の不振や桑田真澄の長期離脱で3位
- 1996年は11.5ゲーム差から逆転優勝(メークドラマ)
- 1997年は清原和博、ヒルマン、石井浩郎が加入も4位
- 1998年は高橋由伸が加入も3位
- 1999年は上原浩治、二岡智宏、高橋由伸が活躍もシーズン終盤に高橋由伸が大ケガで離脱し2位に終わる
- 2000年は王貞治率いるダイエーを下し日本一に
- 巨人の監督を勇退し巨人軍終身名誉監督に就任
- 監督時代の成績
- アテネ・オリンピックの監督に就任するも・・・
- 2004年3月4日、68歳の時、突然、脳梗塞で倒れる
- 脳梗塞で倒れた後は通常の3~4倍のリハビリを敢行していた
- 9年間でリハビリ(筋トレ)を休んだのはたった2日間だけ
- 懸命なリハビリの末に国民栄誉賞授与式ではグラウンドに
- 胆石で緊急入院していた
- 療養型病院の設備やサービスが凄すぎる
- 療養型病院の中でも特にスペシャルな個室で暮らしていた
- 金田正一のお別れ会では両脇を支えられていたことから体調が心配されていた
- 東京オリンピック開会式の聖火リレーに参加
- 東京オリンピックの聖火ランナーを務めることが夢だった
- 脳梗塞によりアテネオリンピック出場(野球日本代表監督)を断念していた
- オリンピックには人間を感動させる役割があると語っていた
- 右手の腱を切断していた
- 右手をポケットに入れたままで批判が殺到していた
- 右手が黒ずんで見えるのは加齢による「老人性紫斑病」
- 妻・亜希子との馴れ初めは?
- 妻・亜希子はすでに有名人だった「長嶋茂雄」を知らなかった
- 妻・亜希子は語学が堪能だった
- 妻・亜希子は長嶋茂雄の無作法ぶりに驚くも飾り気のない姿に好感を持っていた
- 妻・亜希子に「男の職場に顔出すな」と言っていた
- 妻・亜希子への取材を断っていた
- 妻・亜希子は内助の功に徹していた
- 妻・亜希子が心不全により他界
- 妻・亜希子は自殺だった?
- 脳梗塞で倒れた場所は愛人宅だった?
- 「脳梗塞」後は妻・亜希子と別居していた
- 息子(長男)長嶋一茂は元プロ野球選手でタレント・スポーツキャスター
- 長男・長嶋一茂と13年に渡り絶縁状態であることが「週刊文春」により報じられる
- 長男・長嶋一茂との間に商標登録やグッズ売却を巡る問題があった
- 心中は複雑
- 現在も長嶋家の確執は続いている
- 娘(長女)の有希は重度の精神障害者?引きこもり?薬物中毒?
- 娘(次女)は長島三奈
- 息子(次男)の長島正興は元レーシングドライバー
について、まとめてみました。
類まれなる才能と努力で、巨人のみならず、野球界の黄金時代を築いた長嶋さんですが、それゆえに、家族を犠牲にしていた面もあったのかもしれません。
2022年9月には、都内の病院に緊急搬送され、入院するも、命には別状がないことが報じられていますが、ゆっくり静養して、また、元気な姿を見せてもらいたいものです。