お父さんから、「1978年11月21日はどこの球団とも自由に契約ができる(つまり巨人と契約ができる)」と告げられ、想像もしていなかった話にゾッとし、ただただ驚いたという、江川卓(えがわ すぐる)さんですが、野球協約の該当する部分である138条には、確かに抜け穴のように一日だけあいている日、いわゆる「空白の一日」があったといいます。今回は、この「空白の一日」の解釈についてご紹介します。

会見を行う正力亨オーナーと江川卓

「江川卓は1978.11.21はどの球団とも契約できると聞き驚いていた!」からの続き

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野球協約には1日だけ空白の日があった

お父さんから、11月21日はどこの球団とも自由に契約できる日だと聞かされ、ただただ驚いたという江川さんですが、野球協約の該当する部分である138条を見せられ、確かに、1日だけあいている日があったそうです。(空白の一日)

(当時の野球協約では、ドラフト会議で交渉権を得た球団がその選手と交渉できるのは、翌年のドラフト会議の前々日までとされていたのですが、これは、ドラフト会議の準備期間(閉鎖日)として設けられたものだったそうで、前日まで交渉を続けた場合、その交渉地が遠隔地であった場合に、気象の急変などによって球団関係者がドラフト会議に出席できず、ドラフト会議に支障をきたす恐れがあることから作られたのだそうです)

江川卓はドラフト対象学生にあてはまらず「ドラフト対象外」だった

また、当時のドラフト対象学生は、「日本の中学校、高等学校、大学に在籍し未だいずれの球団とも選手契約を締結したことのない選手」となっており、

その時点での江川さんは、この年(1978年)3月に法政大学を卒業し、フリーの身だったため、野球協約に照らし合わせて考えてみても、「ドラフト対象外」であり、この日(11月21日)1日に限っては、どこの球団とも自由に契約してよいという理屈になっていました。

(ちなみに、1978年7月31日、日本野球機構は、ドラフト対象の範囲を広げるために、ドラフト対象選手を「日本の中学・高校・大学に在学した経験のある者」へ改正しているのですが、この新協約は、「次回ドラフト会議当日から発効する」ことになっており、巨人は、この日(11月21日)時点の江川さんには当てはまらない、つまり、この新協約はドラフト会議が行われる11月22日以降に適用されると解釈したそうです)

巨人が江川卓を「入団契約可能」と解釈した理屈は?

以上の話をまとめると、

巨人は、

  • 11月22日に行われるドラフト会議の前日の11月21日には(前年にドラフト会議で交渉権を得た)西武の交渉権が消滅。(どこの球団も束縛権は持っておらず、どこの球団とも自由に契約ができる)
  • 11月21日時点でドラフト対象外選手である。(新協約「日本の中学・高校・大学に在学した経験のある者」をドラフト対象とするのはドラフト会議が行われる11月22日以後であると解釈)

との理屈で、江川さんを「入団契約可能」と解釈したのでした。

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江川卓本人は最初は「空白の一日」の利用を若干躊躇していた

一方、江川さんは、著書「たかが江川されど江川」で、その時の戸惑いを、

世の中は広い。誰が気づいたことかは知らないけれど、頭のいい人がいるものだ。

理屈は通っている。世の中には、いろんな抜け穴があるとは聞かされていたが、自分の関わるもの、つまりドラフトにこんな抜け穴があるとは・・・。しかし、根が臆病な僕のことだ。さあ、どうすると言われても、すぐには結論が出せなかった。

不安があった。この「空白の一日」を活用した前例がまったくなかったことだ。野球協約を何度も何度も、その場で読み返した。 なるほど納得はできる。間違いなく「空白の一日」は存在する。でも・・・。僕の心は揺れた。もともと、次のドラフトにかけようと覚悟は決めていたのだし、前代未聞の抜け穴を通り抜けたりせずに、明日まで待った方がいいのではないか・・・。

すると、 もうひとりの僕が囁(ささや)きかけてきた。法律的に問題はないんだ、お前はアメリカで、法的合理主義の精神で人々が自分の権利を通す姿を、目のあたりにして来たはずじゃないか、今日なら正々堂々、巨人と契約できる、夢が叶うんだ・・・。そしてまた、今日しかないのだ、明日は遅すぎる・・・。

と、綴っています。

「江川卓は巨人入団をプロ野球実行委員会で討議されていた!」に続く

会見を行う正力亨オーナーと江川卓
1978年11月21日。巨人入団会見を行う力亨オーナー(左)と江川さん(右)。

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