1975年、打率3割1分9厘(首位打者)、30本塁打、84打点という素晴らしい成績で、広島カープの初のリーグ優勝に大きく貢献した、山本浩二(やまもと こうじ)さんは、1977年シーズンには、自己最多の30本塁打を大きく上回る44本塁打(王貞治さんに次いでリーグ2位)を記録すると、その後、1981年まで5年連続で40本塁打を記録するなど本塁打を量産し、通算4回も本塁打王に輝いているのですが、なぜ、プロ入り9年目に急に覚醒したのでしょうか。
「山本浩二は首位打者を僅差(9毛差)で獲得していた!」からの続き
山本浩二が本塁打を量産できるようになった理由とは?
山本さんは、プロ入り9年目の1977年に自己最多の44本塁打を記録すると、その後、1978年も44本、1979年は42本、1980年は44本、1981年は43本と、5年連続で40本塁打を記録しているのですが、
(この記録を持つのは、山本さんと王貞治さんの二人だけ)
山本さんによると、突然開眼して打てるようになった訳ではなく、いろいろな要素の積み重ねで打てるようになったといいます。
山本浩二は長池徳二のアドバイスにより投手のクセを見抜くことを意識するようになっていた
まず、投手を観察する力を養ったそうで、プロ入り2年目か3年目のオープン戦の時、法政大学の先輩の阪急(現・オリックス)の長池徳二(後の徳士)さんと食事をした際、
長池さんが、
これからの野球は、いかに相手のクセを見抜くかだ。ピッチャーよりも観察する練習をしろ
と、アドバイスしてくれたそうで、
(当時の阪急には、投手が球種によって、振りかぶるときの脇の締り具合、グラブの開き方、腕の入り方などが微妙に異なっていることを見抜く、クセ破りの名人、ダリル・スペンサー選手がおり、投手が投げるたびにメモを取っていたそうです)
それ以来、山本さんは、チームの打撃投手でもクセを探すようになり、打席からだけでなく、ベンチからや、タバコを吸う時でも、目で投手を追ったそうで、少しでもいつもと違う仕草をしたら、「今の球、何やった?」と球種を聞いて、クセかどうかを確認するようにしたのだそうです。
山本浩二は狙い球を絞り、確実に仕留める技術も養っていた
そんな山本さんは、「3つあるストライクの1つを一振りで仕留める」ため、投手だけでなく捕手の性格も考え、状況に応じて、球種、コースを読んで打席に入るようになったほか、
狙い球が来た際には、確実に仕留められるよう、打撃技術も養っていったのだそうです。
(4番である山本さんには初球からウイニングショットを投げてくる投手もいたそうです)
山本浩二は内角打ちの技術と打球が伸びる打ち方も養っていた
そして、内角打ちの技術も磨いていったそうで、ある試合で、(持病の腰痛がひどく)かがめなかったことがあったそうですが、かがまなければ外角の球には手が届かないことから、腰痛のことを相手投手に悟られないよう平然と構え、内角だけを待っていると、そこへ狙い通りの球が来たそうで、
払うようにバットを出し、その場でくるっと体を回すと、打球は切れずに左翼席最前列へ飛び込んだそうで、芯に当たらなくても押し込んでつまりながら運ぶという打ち方が出来るようになり、内角の何割かは対応できるようになっていったそうです。
(「シュート打ちの名人」と呼ばれた山内一弘さんから、以前、「力を抜いて、ほんの一瞬だけバットのヘッドを利かせる」と教わったそうですが、これが山内さんの言っていたことだったのかと理解できたのだそうです)
また、右中間、左中間が多い自身のホームランの角度も分かるようになり、打球が伸びる打ち方も身につけていったそうで、
山本さんは、スポニチの連載「我が道」で、
何年も積み重ねて投手の観察。読み、技術のすべてが重なり合ってホームランが量産できるようになったのである。
と、綴っています。