1965年、ファーストシングル「だけど だけど だけど」で、青春アイドル路線でデビューするも、全く売れなかったという、美川憲一(みかわ けんいち)さんは、2枚目のシングル「あの娘が好きと云った花」もサッパリだったそうですが、翌1966年にリリースした3枚目のシングル「柳ヶ瀬ブルース」は120万枚を突破する大ヒットを記録します。ただ、当初は、この「柳ヶ瀬ブルース」を歌うのが嫌で嫌でたまらなかったといいます。

「美川憲一は昔俳優から歌手に転向するも全く売れなかった!」からの続き

Sponsored Link

美川憲一は「柳ヶ瀬ブルース」(3rdシングル)が120万枚を売り上げる大ヒットを記録していた

1965年、19歳の時、青春アイドル路線で、ファーストシングル「だけど だけど だけど」でデビューするも、全く売れなかったという美川さんは、同年12月には、2枚目のシングル「あの娘が好きと云った花」をリリースするのですが、これもパッとせず。

created by Rinker
株式会社JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント

しかし、翌年の1966年に、3枚目のシングル「柳ヶ瀬ブルース」をリリースし、キャンペーンで各地を回ると、名古屋を皮切りに人気に火がつき、120万枚を売り上げる大ヒットとなったそうで、美川さんは、一躍、スターダムへと駆け上がったのでした。

created by Rinker
株式会社JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント

美川憲一は「柳ヶ瀬ブルース」を歌うことが嫌で嫌でたまらなかった

とはいえ、当初、美川さんは、青春アイドル路線とはかけ離れたこの「柳ヶ瀬ブルース」が、古臭く、退廃的に感じられ、歌詞の意味もよく分からなかったことから、歌うことが嫌で嫌でたまらなかったそうで、

(「柳ヶ瀬ブルース」は、もともとは、岐阜の繁華街の柳ヶ瀬で流しをしていた宇佐英雄さんの作詞・作曲で(当時は、曲のタイトルに地名を入れる「ご当地ソング」が流行っていたことから、それを意識して作られたものだったそうです)、この曲を聴いたプロダクション関係者が宇佐英雄さんに交渉して美川さんに持ち込んだのだそうです)

社長から渡されたソノシートを聴いて練習したものの、こぶしが回らず、歌詞の意味も分からなかったことから、なんと、社長に、

これ、歌いません

と、断っていたといいます。

すると、社長は、

ヒット曲もないくせにふざけるな!
クビだ!

と、激怒したそうで、

美川さんは、仕方なくそのまま帰宅し、養母にクビになったことを報告したそうですが、

養母には、

あんた、学校も大映も途中で辞めて歌手になったのに、冗談じゃないわよ!

と、叱られたそうで、

その後、養母は、美川さんを連れて社長の家へ行き、社長の前で土下座して一緒に謝ってくれたのだそうです。

(美川さんは、仕方なく頭を下げたそうですが、腹の中では「こんにゃろー」と思っていたそうです)

美川憲一は「柳ヶ瀬ブルース」のレコーディングでは嫌々歌っていたが、社長や専務たちからは絶賛されていた

すると、養母の誠意が社長に伝わり、許してもらったそうで、美川さんは再び、「柳ヶ瀬ブルース」をレコーディングすることになったそうですが、

美川さんとしては、社長に「クビだ」と言われたことが頭に残っていたことから、

あーこの世界って、簡単に人をクビにするんだ

と、ふてくされながら、低音の声で、イヤイヤ歌ったのだそうです。

しかし、社長や専務からは、

若いのにこんなに冷めてるなんてすごい。突き放すような歌い方もいい

求めていたのはまさにこのイメージだ

などと、絶賛されたそうで(笑)、

実際、120万枚を売り上げる大ヒットとなったのだそうです。

美川憲一はその後も「新潟ブルース」「釧路の夜」と立て続けにヒットNHK紅白歌合戦初出場も果たしていた

そんな美川さんは、その後も、1967年には「新潟ブルース」、1968年には「釧路の夜」と立て続けにヒットを飛ばし、1968年には、「釧路の夜」でNHK紅白歌合戦初出場も果たしているのですが、

(紅白歌合戦は、当時、新人枠は2~3人だったそうですが、美川さんは見事その枠に入ったのでした)

当時、中学生だったという、ライターの堀井六郎さんによると、

今やおネエ系タレント全盛の芸能界ですが、この人が初めてテレビ画面に登場したときのことを思い出すと、隔世の感を禁じ得ません

今思えば、(美川さんの)ノンセクシュアルなムードが醸し出す妖しさが、十代の少年には刺激的だったと納得できるのですが、それでもなお当時の美川には近寄りがたい凛々しさも感じられ、その低音の響きと共に忘れがたく迫ってきたものでした

とのことで、

デビュー当時は、青春アイドル路線だった美川さんが、3作目の「柳ヶ瀬ブルース」から、タキシードを着て、直立不動で、スタンドマイクで凜として歌う様子は異質だったそうです。

Sponsored Link

美川健一は「柳ヶ瀬ブルース」「釧路の夜」のヒットにより、母親2人に仕事を辞めさせていた

さておき、美川さんは、「柳ヶ瀬ブルース」のヒットにより、新人の頃は2万5千円だったお給料が、1年後には15万円にアップし、「釧路の夜」をリリースした1968年には、300万円になったそうですが、そのタイミングで、母親(実母と養母)2人に仕事を辞めさせ、生活全般の面倒を見ることにしたそうで、

(当時、大手事務所でも月給は30万~40万円だったそうで、美川さんの月給300万は小さい事務所ながら破格の待遇だったそうです)

美川さんは、

私には「生みの母」と「育ての母」、つまり2人の母親がいたの。しかもそれが実の姉妹でね。育ての母である姉は奥ゆかしくて、生みの母の妹ははっきりモノを言う性格と正反対なタイプで、地元では美人姉妹だって言われていて。

売れてからは東京・世田谷に豪邸を建てて2人の母と3人で暮らしていました。産みの母は男運がないし、育ての母は40いくつで未亡人になったから、私が2人を幸せにしないといけない、って思っていたの。

2人に「東京にきてどうだった?」って聞いたら「あんたのおかげで何不自由なく暮らせて、こんな豪邸に住めて思い残すことはない、ありがとう」って。その言葉を聞けて私の使命は終わったわ。

産みの母はサバサバしていて歯に衣着せないところがあり、育ての母にはおしとやかなところがあって、私は半分ずつ引き継いでいるの。育ての母は1996年、産みの母はその10年後に亡くなりました。

と、語っています。

ちなみに、実の父親とは、後年、美川さんが「夜のヒットスタジオ」に出演した際、ご対面コーナーで再会したそうですが、

美川さんは、

もう震えて歌どころじゃなかったわよ。テレビ局ってホントよく見つけてくるわよねぇ

と、語っています。

「美川憲一の「お金をちょうだい」はNHKで歌唱禁止となっていた!」に続く


(タップでyoutube)

お読みいただきありがとうございました

Sponsored Link