日本人画家の父親とデンマーク人の母親のもと、フランスのニースで誕生すると、その後、第二次世界大戦が始まったことから、戦火を避けるため、親戚を頼って台湾に渡り、終戦後、日本に帰国した、E・H・エリックさんは、母親の教育方針により、当時、通っていた日本の高校からインターナショナルスクールに移り、英語をマスターしたそうですが、

卒業後は、仕事で出入りしていた日劇ミュージックホールの楽屋で、なんと、コメディアンで司会者のトニー谷さんにスカウトされ、舞台デビューすると、1961年には、音楽バラエティ番組「夢で逢いましょう」にレギュラー出演したのをきっかけに大ブレイクします。

E・H・エリック

「E・H・エリックの本名は?弟・岡田眞澄と共にデンマークとのハーフだった!」からの続き

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E・H・エリックは若い頃、トニー谷、泉和助とトリオを組み、日劇ミュージックホールでデビューしていた

E・H・エリックさんは、インターナショナルスクール卒業後は、外資系の舞台音響設備会社に入社し、しばらくは電気工事に従事していたそうですが、工事で日劇ミュージックホールの楽屋に出入りした際、

コメディアンで司会者のトニー谷さんに、

外人のラ~ツ~して日本語ペラペラ、あんた、面白いね~(外人の顔をしているくせに、べらんめえの日本語が喋れて面白い。舞台でやってみないか)

と、誘われたそうで、

1953年、24歳の時には、トニー谷さん、泉和助さんとトリオを組み、日劇ミュージックホールでデビュー。

そして、弟の岡田眞澄さんと共に、日劇ミュージックホールの座長格だった泉和助さんに弟子入りして芸を学んだのだそうです。

E・H・エリックは若い頃は俳優やコメディアンとして活躍していた

そんなE・H・エリックさんは、日劇、大阪ミュージックホール、新宿コマ劇場などの舞台に出演しながら、1954年には、「七変化狸御殿」でロマノフの用心棒役で映画デビューすると、

「七変化狸御殿」出演時のE・H・エリック
「七変化狸御殿」より。

日劇ミュージック・ホールでは、南道郎さんとの漫才コンビで売り出され、1957年には、コメディ映画「東京よいとこ」で南道郎さんとダブル主演を務めます。

「東京よいとこ」のポスター
「東京よいとこ」のポスターより。

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E・H・エリックは若い頃は「ヘンな外人」として大ブレイクしていた

そして、1961年には、音楽バラエティ番組「夢で逢いましょう」にレギュラー出演すると、日本人離れした外見で流暢(りゅうちょう)な日本語を操り、日本のことに詳しい、”ヘンな外人”として、一躍、大ブレイクしたのでした。

(現在は、「外人」という表現は差別的なニュアンスがあるとみなされ、メディアでは使われなくなっていますが、当時の日本では、普通に使われていたほか、流暢に日本語を操り、日本に詳しい外国人が、とても珍しく、「ヘン(変)」と感じられていました)

「夢で逢いましょう」出演時のE・H・エリック
「夢で逢いましょう」より。

ちなみに、1964年8月25日、読売新聞の「お顔拝借」のコーナーには、

通称“ヘンな外人”。日本のことにおそろしくくわしいため、ホンモノの日本人がハナジロんでしまうという、永六輔の発案になる人物が「夢であいましょう」に出てくる

と、掲載されていたそうですが、

「ヘンな外人」は、もともとは、永六輔さんが考え出した、コント用のキャラクターだったそうで、E・H・エリックさんは、そのイメージにぴったりだったようです。

(E・H・エリックさんは、小野薬品の「タフマックED」のCMで、耳をピクピクと動かす芸を行っているのですが、以降、耳を動かす芸がトレードマークとなったそうです)

「E・H・エリックはアムウェイで大成功していた!堺正章も勧誘していた!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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