1968年に、音楽ショー・トリオ「ピスボーイ」のドラマーとしてデビューすると、その後、漫才コンビ「海原かける・めぐる」で活動した後、吉本新喜劇に入団し、間寛平さんとコンビを組んで披露した「猫VS猿の喧嘩(けんか)」で人気を博した、池乃めだか(いけの めだか)さんですが、
3歳の時にお父さんが他界すると、その後、お母さんが酒浸りになり、極貧生活を送っていたそうで、一時は生活保護を受けていたといいます。
ただ、高校中退後には、三洋電機に就職したことで普通の生活が送れるようになったそうですが、約6年半後には会社を退職し、音楽ショートリオのドラマーとしてデビューしたといいます。
今回は、そんな池乃めだかさんの、壮絶な生い立ち(誕生時からトリオ「ピスボーイ」時代まで)をご紹介します。
池乃めだかのプロフィール
池乃めだかさんは、1943年7月3日生まれ、
大阪府守口市の出身、
身長は(公称)149センチ(実際は145センチ)、
体重は51キロ、
靴のサイズは23.5センチ、
血液型はB型、
学歴は、
守口市立第一中学校卒業、
趣味は、ゴルフ、水泳、映画鑑賞、カラオケ、三点倒立、腕立て伏せ40回、
特技は、三点倒立、腕立て伏せ40回、
ちなみに、池乃めだかさんの本名は、「中井昭彦(なかい あきひこ)」で、愛称は、「池やん」「めぐ坊」「めーちゃん」「ちっさいおっさん」などです。
池乃めだかは3歳の時に父親を亡くし、母子家庭で育っていた
池乃めだかさんは、大工のお父さんのもと、2人兄弟の弟として誕生するのですが、池乃めだかさんが3歳の時に、お父さんは脳出血で他界してしまったそうです。
そのため、池乃めだかさんは母子家庭で育ったそうで、お母さんは家で洋裁の針仕事をし、13歳年上のお兄さんは鉄工所で働いて生計を立てていたそうです。
池乃めだかの幼少期は母親が酒浸りで極貧生活を送っていた
とはいえ、お母さんは、お父さんを亡くした寂しさからお酒に走り、飲んだくれていたため、稼ぎはほとんどなく、極貧生活だったそうで、
池乃めだかさん一家は、大阪府守口市の郊外の長屋に住んでいたそうですが、部屋は6畳と4畳半に小さな台所がついているだけで、お風呂はなく、窓はガラスが割れると、新しいガラスを買うお金がなかったため、ベニヤ板を張って補修するだけだったそうで、
長屋自体が古く、家中、隙間(すきま)だらけだったこともあり、冬は外と変わらないぐらい寒かったのだそうです。
また、お母さんは、毎晩お酒に酔いつぶれて大声を出していたそうで、まだ幼い池乃めだかさんは、夜が来るのが怖かったそうです。
池乃めだかの幼少期の娯楽は「アチャコ青春手帖」や「お父さんはお人好し」のラジオ番組を聴くことだった
そんな暮らしの中で、幼い池乃めだかさんの唯一の楽しみは、吉本興業の花菱アチャコさんが出演するラジオ番組「アチャコ青春手帖」や「お父さんはお人好し」を聴くことだったそうです。
(テレビは、高額で手の届かない存在だったそうです)
池乃めだかが中学2年生(14歳)の時には、母親は入院、兄夫婦は家出し、ますます貧乏になっていた
そんな中、今度はお母さんが入院することになり、ますます貧乏になったそうですが、池乃めだかさんが中学2年生(14歳)の時には、お兄さんが家出してしまい、さらに貧乏になったそうで、
池乃めだかさんは、その時のことを、
いきなり一人っきり、生活費はない、それでもオカンの入院代はかかる。ホンマどん底やで。
と、語っています。
(同居していた兄嫁とお母さんが不仲で、兄夫婦が家出すると、ショックを受けたお母さんが睡眠薬を飲んで自殺を図り、精神に異常をきたして入退院を繰り返すようになったという話も)
池乃めだかは中学3年生(15歳)の時には生活保護を受けるようになるも極貧生活は変わらなかった
そこで、池乃めだかさんは、中学2年生(14歳)の時、生活費とお母さんの入院費を稼ぐため、新聞配達のアルバイトを始めたそうですが、
中学3年生(15歳)の時には、周囲の勧めもあり、生活保護を受けるようになったそうで、新聞配達は辞めたのだそうです。
ただ、1日3食食べられないことには変わりなく、電気代を止められたことも何度もあったのだそうです。
池乃めだかは中学3年生(15歳)の時には修学旅行代を担任の先生に全額負担してもらっていた
そんな池乃めだかさんは、中学3年生の修学旅行は、お金がなかったため、最初から行けるとは思わず、あきらめていたそうですが、
担任の先生が、「心配せんでええ」と言って全額出してくれたそうで、とてもうれしかったそうです。
池乃めだかは中学卒業後は経済的な理由で定時制高校に入学するも中退せざるを得なくなっていた
また、池乃めだかさんは、中学時代の成績はとても優秀だったそうですが、経済的な事情から、身内から高校進学を反対されたそうで、担任の先生が身内を説得しに家まで来てくれたこともあったそうです。
結果、池乃めだかさんは、中学卒業後は、定時制高校に入学したそうですが・・・
最終的には、経済的な事情のため、高校を中退せざるをえなかったのだそうです。
池乃めだかは高校中退後は三洋電機に就職し、貧乏ながらようやくまともに食べていけるようになっていた
こうして、高校中退を余儀なくされた池乃めだかさんは、その後、三洋電機に就職したそうで、お母さんは相変わらず入院していたことから、給料の大半は入院費に消えてしまったそうで、決して暮らしは楽ではなかったそうですが、
それでも、社員食堂を利用できたことから、ご飯はちゃんと食べられるようになったそうです。
池乃めだかは22歳頃に三洋電機を退職していた
しかし、池乃めだかさんは、22歳頃には、約6年半勤務した三洋電機を退職したそうで、
その理由について、池乃めだかさんは、異なる二つの話をしています。
まず、一つ目は、上司から宗教勧誘を受け、それを断ったことで気まずくなったという話。
もう一つは、ただ単に、飽きたから、ということで、
さして辞める理由もなかったんですが、大企業でのん気に、何の刺激もなく毎日を送っていることに飽きが来たというか、何か冒険してみようと。そういうスタイルが流行ったんです。
まわりに会社を辞めて町工場に行った人とかもいた。僕も、とりあえず会社を辞めようと、退職願いが受理されて、9月にやめることになった。
と、語っています。
池乃めだかは25歳の時には海原小浜に弟子入りを志願するも断られていた
その後の詳しい経緯は不明ですが、池乃めだかさんは、25歳の時には、たまたま、女性漫才コンビ「海原お浜・小浜」の海原小浜さんの息子(後の海原かけるさんで、姉妹の漫才コンビ・海原やすよともこのお父さん)が友達だったことから、
小浜さんの弟子にしてもらおうと思い、弟子入りを志願したそうですが・・・
断られてしまったそうです。
女性漫才コンビ「海原お浜・小浜」の海原小浜さん(左)
池乃めだかは25歳の時に音楽ショーのトリオ「ピスボーイ」でドラマーとしてデビューしていた
すると、その時に居合わせた人に、
俺らと一緒にやろか
と、誘われ、「ピスボーイ」というトリオを組んで、音楽ショーをすることになったそうで、
池乃めだかさんは、1968年、25歳の時、「中井次郎」の名で、ドラマーとして初舞台を踏んだのだそうです。
ちなみに、池乃めだかさんは、音楽の素養はなく、ドラムどころか、スティックも持ったことがなかったそうですが、メンバーの一人に10日間みっちりドラムを教えてもらい、面接を受けてから10日後に初舞台を踏んだのだそうです。
「【画像】池乃めだかの若い頃は?現在までの経歴を時系列でまとめ!」に続く
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