1976年、吉本新喜劇に入団すると、当初は、なかなか芽が出なかったものの、その後、間寛平さんとコンビを組むと、小柄な体を生かしたギャグと唯一無二の存在感で、たちまちブレイクした、吉本新喜劇のレジェンド・池乃めだか(いけの めだか)さん。
今回は、そんな池乃めだかさんの若い頃から現在までの活躍や経歴を時系列でまとめてみました。
池乃めだかの20代の頃
26歳頃に海原小浜に弟子入り
1968年、25歳の時、音楽トリオ「ピスボーイ」でデビューした池乃めだかさんですが、やがて、ギター担当の正司玲児さんと意見が合わなくなったそうで、「ピスボーイ」は1年3ヶ月で解散したそうです。
その後、正司玲児さんに漫才を一緒にやらないかと誘われたそうですが、断り、とりあえずは、芸能界入りの際にお世話になったという、漫才師の海原小浜さんに報告しに行くと、
海原小浜さんには、
これからどうするんや
と、聞かれたことから、
池乃めだかさんが、
町工場にでも働きに行きます
と、答えると、
海原小浜さんに、
せっかくこの世界に入ったのに、もったいない。私のかばんでも持っていたら、なにか見つかるやろ
と、言ってもらい、弟子にしてもらったのだそうです。
25歳の時に漫才コンビ「海原かける・めぐる」の海原めぐるとして活動を開始
そんな中、25歳の時には、海原小浜さんの息子で友人だった海原かけるさん(海原やすよ・ともこの父)とコンビを組むことになったそうで、
池乃めだかさんは、「海原めぐる」の芸名で、漫才コンビ「海原かける・めぐる」として歌謡ショーの前座に出演したそうです。
(かけるの相方のめぐるが辞めてしまい、代わりをやってくれと頼まれたそうで、突然のことだったため、芸名も「めぐる」を引き継いだのだそうです)
25歳から漫才コンビ「海原かける・めぐる」として人気を博す
そんな池乃めだかさんは、この1回で終わると思っていたそうですが、次の仕事が入り、また次の仕事が入りと、「海原かける・めぐる」の活動は順調に続いたそうで、
同年、松竹芸能から(設立されたばかりの)ケーエープロダクションに移籍すると、事務所の本拠地だった寄席劇場・梅田トップホットシアターで、人気を博したのでした。
当時、海原めぐるだった池乃めだかさん(左)と海原かけるさん(右)。
池乃めだかの30代の頃
33歳の時には漫才コンビ「海原かける・めぐる」を解散し、吉本興業へ移籍していた
こうして、「海原かける・めぐる」として人気を博した、海原めぐること、池乃めだかさんですが、1976年、33歳の時には、突然、相方の海原かけるさんが、芸人を辞めて商売をすると言い出したそうで、コンビは解散。
池乃めだかさんは、同年6月には、次の相方を探すまでということで、吉本興業へ移籍したそうで、吉本新喜劇に入団したのだそうです。
33歳の時に吉本新喜劇入団に伴い、「海原めぐる」から「池乃めだか」に改名していた
ちなみに、池乃めだかさんは、吉本新喜劇入団に伴い、「海原めぐる」から「池乃めだか」に改名しているのですが、
それまで、「海原めぐる」の名前にちなんで「めーちゃん」と呼ばれていたことから、「めー」のイメージを残したいと思い、「めだか」に決めたのだそうです。
ただ、屋号をどうするか悩み、同い年ながら大先輩の桂三枝(現・六代目桂文枝)さんに相談すると、お茶を飲みに行こうと誘ってもらい、めだかに合う屋号として、「清川」「川乃」「池乃」など5つくらい考えてもらったそうで、
よしもとの上層部に相談したところ、「池乃」がいいのでは、と言われ、「池乃めだか」に決めたのだそうです。
(後に、桂三枝さんにこの時のことを話したそうですが、桂三枝さんは覚えていなかったそうです)
33歳の時に吉本新喜劇に入団するも、セリフは3~4つしかなく、ギャラも下がっていた
こうして、1976年、33歳の時に、吉本新喜劇に入団した池乃めだかさんですが、セリフはたったの3~4つ、しかも、子どもの役ばかりで良い役がもらえず、ギャラも下がったそうで、
このことを不満に思い、吉本興業のえらい人に直談判したそうですが、
海原かける・めぐるの看板があったから、それを加味していた。その看板を下ろしたんやから、それなりの算定をしています
と、言われてしまったのだそうです。
(当時、新人は台本通りやらないと叱られたそうで、池乃めだかさんが勝手にギャグなどをやると、座長格の花紀京さんや岡八郎(後に八朗)さんには何も言われなかったものの、その下の人たちに「勝手なことするな」と怒られたのだそうです)
33歳の時に藤山寛美の弟子の「はな寛太・いま寛大」の寛大に漫才コンビを組もうと誘われていた
そんな中、吉本新喜劇は好きだったものの、こんなところでくすぶっているのはどうかと、池乃めだかさんは、意欲を失いかけていたそうですが、
藤山寛美さんの弟子の「はな寛太・いま寛大」のいま寛大さんに「漫才やらんか」と誘われたそうで、
(寛大さんはちょうどコンビを解消したところだったそうです)
約1年悩んだ末、新喜劇を辞め、いま寛大さんとコンビを組むことを決意したのだそうです。
「はな寛太・いま寛大」のいま寛大さん(左)。
34歳の時に「吉本新喜劇」の副座長格に抜擢され、いま寛大との漫才を断っていた
そこで、池乃めだかさんは、劇場支配人にその旨を伝えに行ったそうですが・・・
支配人からは、
実は6月からこういう具合でやるつもりや
と、出番表を見せられ、
なんと、谷しげるさんの次に、大きな字で「池乃めだか」と書かれてあったそうで(副座長格という意味)、
さらには、
漫才やってもいいけど、よそでやってね
と、言われたそうで、
池乃めだかさんは、
それなら新喜劇でがんばるか
と、思い直し、
寛大さんには土下座して謝ったのだそうです。
ちなみに、池乃めだかさんは、寛大さんから、既に藤山寛美さんにも挨拶していると聞いていたことから、殴られるかもしれないと覚悟していたそうですが、寛大さんは、何も言わずに「そうか、わかった」と言って、許してくれたのだそうです。
34歳で「吉本新喜劇」の副座長になるも相変わらずセリフは少ないままだった
しかし、副座長格にはなったものの、会社の方針が台本作家に伝わっておらず、相変わらず池乃めだかさんのセリフは少ないままだったそうで、池乃めだかさんのストレスは溜まる一方だったそうです。
34歳の時、仲の良かった間寛平の組に配置換えになり、大ブレイク
そんな中、池乃めだかさんは、吉本新喜劇の座長だった間寛平さんの組に配置換えになったそうですが、
実は、間寛平さんとは、以前、テレビ番組「モーレツ!!しごき教室」で共演したことがきっかけで仲良くなっており、池乃めだかさんが新喜劇に移る前には、一緒に漫才をやっていたこともあったほか、間寛平さんの相方だった木村進さんも交え、3人でよく飲みに行く間柄だったそうで、
そんな気心の知れた間寛平さんと組むようになった池乃めだかさんは、たちまち、人気に火がつき、大ブレイクを果たしたのでした。
間寛平さん(右)と漫才をする池乃めだかさん(左)。
34歳の時に”池乃めだかの猫”と”間寛平の猿”のギャグが誕生していた
ちなみに、この時、”池乃めだかさんの猫”と”間寛平さんの猿”のギャグが誕生しており、
池乃めだかさんは、
2人とも動きが軽いからね、アドリブでうまいことお互いけしかけ合って、舞台を走り回ったり、セットの屋台の屋根に登ったり、いろいろやったね。
と、語っています。
(池乃めだかさんが、やくざのちんぴらや高利貸しの役で、間寛平さんのところへ借金の取り立てに来て、けんかするというお芝居)
池乃めだかさんと間寛平さん。
池乃めだかは46歳~52歳まで「吉本新喜劇」の座長
こうして、ようやく、新喜劇でも手応えを感じられるようになったという池乃めだかさんは、小柄な体を生かしたギャグと唯一無二の存在感で吉本新喜劇で一時代を築くと、1980年代後半には、若手育成の為、座長に就任しているのですが、
その後、1995年に座長を引退した後も、変わらぬ人気で安定した活躍を続けています。
(左から)チャーリー浜さん、内場勝則さん、石田靖さん、池乃めだかさん。
池乃めだかは68歳の時に未破裂性脳動脈瘤により開頭手術を受けていた
そんな池乃めだかさんですが、2011年、68歳の時には、頭部に未破裂性脳動脈瘤が発見されたそうで、2012年4月6日には、大阪市内の病院で開頭手術を受けたそうです。
ただ、退院後は、1か月半ほど自宅療養をした後、同年5月29日、京都府の「よしもと祇園花月」での吉本新喜劇公演で復帰しています。
池乃めだかは79歳で脳梗塞を患うも「最年長座長公演」に出演していた
また、池乃めだかさんは、2023年2月、79歳の時には、脳梗塞を発症し、2週間入院しているのですが、治療の結果、無事、回復しており、
同年9月19日から1週間、なんばグランド花月で行われた、史上最年長座長公演「吉本新喜劇/池乃めだか傘寿記念公演」に出演しています。
「池乃めだかの妻は?ネクタイと同じ身長は娘に小学生で抜かれていた!」に続く
史上最年長座長公演「吉本新喜劇/池乃めだか傘寿記念公演」より。
吉本新喜劇時代には、「カニバサミ」、「ネクタイの長さと身長が一緒」、間寛平さんとの「ネコとサルのケンカ」などのギャグで人気を博すと、1980年代後半には、吉本新喜劇の座長になり、以降、安定した人気を保っている、池乃めだか …