1999年~2004年に、テレビドラマ「サラリーマン金太郎」シリーズで大ブレイクしたことを皮切りに、「傷だらけのラブソング」「特命係長 只野仁」シリーズ、「課長 島耕作」など、次々と主演作が大ヒットとなった、高橋克典(たかはし かつのり)さんですが、

幼少期は、音楽の教師をしていた両親のもと、裕福な家庭でお坊ちゃんとして育つも、小学3年生の時に祖父が友人に裏切られて、多額の借金を背負うと、豊かな生活が一変。祖父母も病に倒れるなどの不幸が続き、家庭崩壊とも言える状況にまで陥っていたといいます。

今回は、そんな高橋克典さんの、生い立ち(幼少期から大学中退まで)をご紹介します。

高橋克典

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高橋克典のプロフィール

高橋克典さんは、1964年12月15日生まれ、
神奈川県横浜市の出身、

身長175センチ、
体重68キロ、

血液型はO型、

学歴は、
青山学院初等部・青山学院中等部・高等部
⇒青山学院大学経営学部中退

趣味は、ツーリング、チェロを弾くこと、

ちなみに、高橋克典は本名で、

お父さんは、作曲家で指揮者の高橋勝司(たかはし かつし)さん
お母さんは、声楽家で青山学院女子短期大学の名誉教授・高橋好子さんです。

また、俳優の梅宮辰夫さんは従兄弟おじ(高橋克典さんの祖母の妹の息子)だそうで、梅宮アンナさんははとこだそうです。

高橋克典の幼少期は裕福な家庭でお坊ちゃんとして育っていた

高橋克典さんは、作曲家で指揮者の父・高橋勝司さんと声楽家の母・高橋好子さんのもと、一人っ子として誕生すると、3歳からピアノの英才教育を受けるほか、私立の一貫校である青山学院初等部に入学するなど、裕福な家庭でお坊ちゃんとして育ったそうです。

ちなみに、高橋克典さんの父・高橋勝司さんは、戦時中、海軍飛行予科練習生を希望し、特攻隊員となったそうですが、死を覚悟する中、偶然の出来事で死を免れ、生きて終戦を迎えるも、多くの仲間を失い、自分だけ生きて帰ったことに精神を病み、16歳でお酒に溺れるようになったそうです。

ただ、「聖パウロ教会」の合唱を聴いたことで音楽の素晴らしさに出会い、音楽の道を志すようになったそうで、秋田大学音楽科を経て国立音楽大学作曲科を卒業すると、作曲を高田三郎さん、指揮を金子登さんに師事。

その後、横浜市立南高等学校に赴任し、合唱部・マンドリン部・吹奏楽部・弦楽部を創設して指揮指導を行ったそうです。

また、1964年には、「横浜YMCA混声合唱団」の指揮者にも就任したそうです。

高橋克典の幼少期は音楽好きの家族に影響を受けて育っていた

高橋克典さんは、幼い頃、両親が音楽関係だったことに加え、祖父も大の音楽好きだったことから

朝と昼はクラシック、夜はジャズが流れる家庭で育ち、自身もピアノのほか、トランペットも演奏するようになったそうです。

(祖父は、アメリカ育ちで、アメリカ大使館で働いていたそうで、EPレコードでジャズを好んで聴いていたそうです)

高橋克典は小学校3年生の時に祖父が保証人になって多額の借金を背負わされ、豊かな暮らしが一変していた

しかし、高橋克典さんが小学校3年生の時、祖父が知り合いの保証人になると、裏切られ、多額の借金を背負うことになって、豊かな暮らしは一変したそうで、

高橋克典さんは、その時のことを、

小学校3年のある朝、僕が起きたら、親たちが神妙な顔で話をしていた。聞いたら『もううちには1銭もお金がなくなっちゃった』って。大変なことになったなと

と、語っています。

高橋克典が小学4年生の時、祖父と祖母が病に倒れるほか両親が働き詰めとなり家庭が崩壊していた

そして、それから1年後には、追い打ちをかけるように、祖父は脳溢血で倒れ、祖母もガンになってしまったそうで、それまで賑やかだった家庭が一変。

両親が働き詰めとなったことで、高橋克典さんは、すっかり鍵っ子になってしまい、家庭崩壊のような状況に陥ったのだそうです。

ちなみに、アメリカ大使館で働き、英語がペラペラだった祖父は、高橋克典さんにとって、憧れの人だったそうですが、

高橋克典さんは、

それまでプライドを持って仕事をしていたんですけど、結果的に友人に裏切られ、どん底にいて傷心だった1年後、失意のうちに脳溢血になった

いまでも覚えています。夏の暑い日で。僕の誇りだったおじいちゃんが、裸で病院のベッドにオムツ穿かされて転がされていた。ハエもブンブン飛んでいて。

(病院に)走って行ったらその光景だったので、見たらもうショックで。でも、そのときに自分の中でゴングが鳴った。それから自分の人生が始まったような感じがするんです

と、語っています。

高橋克典の中学生時代はラグビー部に所属するほか音楽活動もしていた

高橋克典さんは、中学生時代には、ラグビー部に所属し、部活動に打ち込んでいたそうですが、一方、ロックバンドを結成するなど音楽活動もしていたそうです。

(ヴォーカルを担当していたそうです)

高橋克典は高校生の時に後輩だった尾崎豊の完成前の「15の夜」を聴いていた

そんな高橋克典さんは、高校時代も、ラグビー部に所属するかたわら、バンド活動に熱中していたそうですが・・・

ラグビー部は、ケガをしたことがきっかけで、高校1年限りで退部したのだそうです。

ちなみに、高橋克典さんは、高校時代、音楽仲間の1歳年下の後輩に尾崎豊さんがいたそうで、

ある日のこと、尾崎豊さんから、

先輩、曲作ったんで聞いてください

と、言われ、曲を聞かされたそうですが、

尾崎豊さんは、自分で作曲したにもかかわらず、「あれ?あれ?」と言いながらぶつ切りで弾いていたそうで、歌はとても上手いとは思ったものの、大物歌手になるとは夢にも思わなかったそうです。

(後に、この曲が、尾崎豊さんの名曲「15の夜」だったと気づいたそうです)

高橋克典は高校2年生の時に映画「日本フィルハーモニー物語」に出演

高橋克典さんは、高校時代から芸能活動を開始していたようで、1981年、高校2年生の時には、映画「日本フィルハーモニー物語」に出演しています。

(1980年のテレビドラマ「ピーマン白書」には「高橋克典」のクレジットがありますが、これは、同姓同名の別人だそうです)

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高橋克典は大学に9年在籍した末に退学となっていた

高橋克典さんは、高校卒業後は、エスカレーター式で大学に進学しているのですが、大学には27歳まで、9年も在籍していたといいます。

高橋克典さんによると、何度も大学をやめようと思い、退学届を出したそうですが、学生課の職員と高橋克典さんのお母さんが知り合いだったことから、お母さんに連絡が行き、退学届が受理されず、家に戻ってきていたそうで、

「とりあえず籍だけ置いておこうか」と思っているうちに9年が経ったそうですが、最終的には、退学(中退)となったのだそうです。

「【画像】高橋克典の若い頃は?現在までの経歴を時系列まとめ!」に続く

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