1963年、アナウンサーとしてフジテレビに入社すると、以降、38年間に渡り、報道番組、音楽番組、バラエティー番組などの司会者として人気を博し、2002年からはフリーとして活動している、露木茂(つゆき しげる)さん。
今回は、そんな露木茂さんの若い頃から現在までの活躍や経歴を時系列でまとめてみました。
「露木茂の生い立ちは?高校はボート部!大学時代は学生バンドの司会で稼いでいた!」からの続き
露木茂の20代の頃
22歳の時、アニメ「鉄人28号」のオープニングでのセリフが初仕事だった
1963年、22歳の時に、フジテレビに入社した露木茂さんは、同年、テレビアニメが放送開始した「鉄人28号」(テレビアニメ第1作)のオープニングの冒頭で流れるセリフ、
てつじんにじゅうはちごう、ガオー
を担当しているのですが、
これは、露木茂さんのアナウンサーとしての初仕事だったそうです。
「鉄人28号」(テレビアニメ第1作)より。
24歳の時、情報番組「小川宏ショー」でアシスタント役に抜擢される
その後、露木茂さんは、着実にアナウンサーとしてのキャリアを積み、1965年5月、24歳の時には、情報番組「小川宏ショー」で、司会の小川宏さんのアシスタント役に抜擢されると、
レポーターと司会を兼任し、話題の事件・事象を独自に徹底取材する「露木レポート」がニュースショーとしても高く評価されます。
「小川宏ショー」より。(左から)木元教子さん、小川宏さん、露木茂さん。
また、露木茂さんの活躍により、「小川宏ショー」は朝の人気番組へと躍進するほか、当時、人気を博していた「モーニングショー」(テレビ朝日)に次いで、ネット局の多い番組となったのでした。
露木茂の30代の頃
31歳の時にグアムで横井庄一へのインタビューに成功
ちなみに、露木茂さんは、「小川宏ショー」の取材では、様々な現場に赴(おもむ)いたそうで、1972年、横井庄一さんがグアムで発見された際には、現地でインタビューをしているのですが、
グアムは2月でも気温が30度ぐらいあり、そんな中で、横井庄一さんが入院している病院に、夜中、カメラマンと侵入し、ベッドに座っていた横井庄一さんにインタビューすることに成功したのだそうです。
横井庄一さんのインタビューはソノシートというレコードになり、「週刊サンケイ」臨時増刊の付録にもなっています。
(横井庄一さんは、太平洋戦争中の1944年、陸軍軍曹としてグアムに配属されると、同年7月には、アメリカ軍が上陸して(グアムの戦い)、グアム島での米軍との戦いにより日本軍は壊滅状態となり、横井庄一さんが所属する中隊は同年8月10日に解散し、8月にこのグアム島で戦死したとされていたのですが、ジャングルで生き延び、グアムに派遣されてから約28年後の1972年1月24日に発見されたのでした)
31歳の時には「あさま山荘事件」で司会兼リポーター
また、露木茂さんは、同じ1972年2月、「あさま山荘事件」で犯人逮捕人質救出作戦が行われた際には、司会兼リポーターとして現場に赴くと、現場となった長野県北佐久郡軽井沢町は零下15度という極寒だったそうですが、
(当初は2~3時間で終わると思っていたそうですが)昼になり、夕方になり…と、だんだん暗くなる中、建物に立てこもった犯人が逮捕されるのを延々と待ったそうで、
(その間、食事に行くことも、トイレに行くこともできなかったそうです)
その甲斐あって、フジテレビのみ、逮捕直後の犯人の様子を撮影することに成功したのだそうです。
ちなみに、当時のカラーテレビカメラは、暗くなると何も写らなかったそうですが、フジテレビのカメラマンが持っていた予備の白黒カメラだけは高感度だったそうで、高い解像力で写ったのだそうです。
(「あさま山荘事件」とは、1972年2月19日から2月28日にかけて、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器製作所の保養所「浅間山荘」において連合赤軍の残党が人質をとって立てこもった事件のこと)
38歳~55歳まで18年連続で「FNS歌謡祭」の総合司会を担当
そんな露木茂さんは、報道番組でキャスターを務めるかたわら、1978年(38歳)~1995年(55歳)まで、18年連続「FNS歌謡祭」の総合司会を担当するなど、バラエティの分野でも活躍しています。
「FNS歌謡祭」で総合司会を務める露木茂さんと芳村真理さん。
露木茂は44歳の時には「日航機123便墜落事故」で映像を見ながら原稿なしのアドリブで番組をこなしていた
露木茂さんは、「小川宏ショー」に、1965年5月~1970年3月、1975年10月~1981年3月まで出演すると、その後は、昼の報道番組でキャスターを通算9年、夕方の報道番組でキャスターを5年、早朝・深夜の報道番組を1年ずつ務めているのですが、
1985年、44歳の時、「日航機123便墜落事故」が発生した際には、報道特別番組で通算10時間以上も司会を務めています。
「JAL123便墜落報道特番」で司会を務める露木茂さん。
当初、原稿では、「乗客乗務員全員死亡」という内容だったそうですが、1985年8月13日の「FNNニュースレポート11:30」の放送開始直前、中継スタッフから生存者発見の一報が入ったそうで、
露木茂さんは、それを受けてこの生存者発見のニュースを伝えると、「乗客乗務員全員死亡」の原稿を差し替える時間がなかったため、映像だけを見ながら原稿なしのアドリブで番組をこなしたそうですが、この報道が認められ、露木茂さんは、「日本新聞協会賞」を受賞しています。
ちなみに、露木茂さんは、
御巣鷹山でも、一番早く現場の様子を伝えるんだという、最前線に自分がいる自負がありましたよ。
今は事件や事故が起きると、現場に行くよりもまずパソコンを開いて、素人が撮った映像がアップされているのを探し、撮った人とコンタクトを取る。現場をいち早く伝えるという意識の持ち方が違ってきてしまっている。
と、語っています。
露木茂は58歳の時に政界工作費の使い込みが報じられ「報道2001」を降板していた
しかし、露木茂さんは、定年退職目前だった、1999年、58歳の時、政界工作費の使い込みをしたと報道され、司会を務めていた報道番組「報道2001」を降板しています
報道によると、露木茂さんは、知人の会社社長から国会議員との仲介を頼まれ、そのための対策費として、現金30万円を預かったそうですが、結果的には、知人が求めるような仲介ができず、知人から30万円の返金を迫られたそうですが、
露木茂さんは知人に対し、
対策費として受け取った30万円は接待や交通費などで使った
という趣旨の文書を書いて手渡し、返金しなかったといいます。
すると、1999年11月、露木茂さんが書いた文書が週刊誌に取り上げられるとともに、露木茂さんが政界工作費の使い込みをしたと大々的に報じられ、
(報道内容の真偽は不明ですが)この報道のせいで、露木茂さんは、司会を務めていた報道番組「報道2001」を降板することとなったのでした。
露木茂は60歳でフジテレビを定年退職
そんな露木茂さんは、その後、数ヶ月の謹慎期間を経て復帰すると、2000年12月、60歳の時に、フジテレビを定年退職しています。
露木茂の現在は?
そして、フジテレビを定年退職後の2002年からは、フリーの司会業、講演活動、東京国際大学特命教授を務めるほか、日本記者クラブ企画委員として、日本記者クラブ主催討論会の司会なども務めるなど、幅広く活動しています。
露木茂は左尿管ガンで闘病も現在は回復
また、露木茂さんは、2020年2月には、左尿管ガンが判明し、闘病生活を送っていたことを公表しているのですが、術後は順調に回復し、現在は、何不自由なく日常生活を送っているそうです。
「露木茂の妻・軽部和子との馴れ初めは?子供は息子が2人!」に続く
1965年、情報番組「小川宏ショー」にアシスタントとして抜擢されると、1972年には、横井庄一さんへのインタビューや「あさま山荘事件」でのリポーター、1985年には、「日航機123便墜落事故」の特別報道番組の司会者を務め …