1959年、日本テレビにアナウンサーとして入社し、その後、結婚、出産後も働き続けると、職場で猛反発を受けたという、田原節子(たはら せつこ)さん。
そんな田原節子さんは、これをきっかけに、マスコミ関係で働く女性たちとともに、女性解放運動グループ「ウルフの会」を立ち上げ、結婚・出産を経た30代の女性たち「中年リブ」のリーダー的存在としても活躍しました。
今回は、田原節子さんの、若い頃の活躍や経歴を日本テレビ入社(アナウンサー)から時系列でまとめてみました。
「田原節子の生い立ちは?幼少期から強い母親に憧れていた!就職するため早稲田大に進学していた!」からの続き
田原節子が20代の時は難関をくぐり抜け日本テレビにアナウンサーとして入社するも結婚&出産後も仕事を続け職場で猛反発を受けていた
23歳の時に2500名の応募者の中から日本テレビにアナウンサーとして入社
1959年、23歳の時、難関(2500人の応募者)をくぐり抜けて日本テレビにアナウンサーとして入社した田原節子さんは、この年はテレビ放送が始まって6年目だったこともあり、現場は全員20代という新しい職場だったそうです。
ただ、現場はまだまだ男性優位で、
- その服装は女らしくない
- 女はもう少しお辞儀を深くするものだ
- (男と女のアナウンサーが2人いる場合)男より先に発言するな
などと言われたそうで、
田原節子さんは、”女子アナウンサー”という扱いに、最初はニコニコしていたそうですが、次第に自分が合わなくなってきたことを感じていたのそうです。
結婚&出産後も仕事を続け職場で猛反発を受けていた
その後、田原節子さんは、入社3年目の1962年、26歳の時に結婚すると、その後、出産もしたそうですが・・・
周りの女性アナウンサーはみな結婚で辞めており、テレビ局に勤めていた女性で出産後も辞めなかったのは、田原節子さんが初めてだったそうで、仕事を続けたまま出産した田原節子さんは、職場で猛反発を受けたそうで、
(当時、女性が仕事を続けるということは、出産しないということを意味していたことから、両方は考えられなかったそうです)
田原節子さんは、その時のことを、
結婚しても、出産しても、仕事を続けていく。それを認めさせるため一つ一つぶつかっていく中で、一体女って何だろう、一体なんでこんなに壁が、ハードルがあるんだろうと思いはじめました。
就職すればね、男も女もひとつの道がすぅーっと真っ直ぐにあると思ってた。それが、仕事以外のところで、いちいち社員としてのお前はなんだ、女のくせにとか。何で女はそういう存在に扱われるんだろうと。
と、語っています。
田原節子が30代の時は女性解放運動をしてニュース番組を外され会社を相手に裁判を起こしていた
38歳の時に女性解放運動を始めるとニュース番組から外されていた
そんな田原節子さんは、この頃(1964年頃)、ディレクターの板谷翠さんや女性学専攻の秋山洋子さんとともに、「女性史研究会」を立ち上げると、
やがて、「女性解放運動準備会」と改め、さらに「ウルフの会」として活動するようになったほか、雑誌などにウーマン・リブ(女性解放運動)について、原稿や連載のコラムを書くようになったそうです。
(「ウルフの会」は、テレビ局と出版社で働く女性たちを中心にした活動グループで、(若い女性を中心とした女性解放運動とは異なり)仕事を持ち、結婚している30代女性が中心となった「中年リブ」グループの第一線で、メンバーそれぞれが様々なメディアで独自に発言していたそうです)
しかし、1974年、38歳の時、ある評論家に、
日本テレビのアナウンサーがこんなことしてていいのか
と、言われると、
これをきっかけに、ニュース番組から外されてしまったのだそうです。
39歳の時には”容姿と声の衰え”を理由に配置転換を言い渡され会社相手に裁判を起こしていた
その後、田原節子さんは、1975年、39歳の時には、メキシコで開催された「国際婦人年メキシコ大会」に、(自費で)参加したそうですが、
帰国すると、会社から、
容姿と声の衰え
を理由に配置転換を言い渡されたといいます。
これに納得できない田原節子さんは、会社を相手に裁判を起こしたそうですが・・・
(勝っても負けても会社を辞めようと思っていたそうです)
裁判の大変さよりも周囲の人たちからの中傷がこたえたそうで、友だちだと思っていた人が、「若い人に仕事をゆずれ」と週刊誌にコメントするほか、”アナウンサーとしての能力”について批判されたりしたそうで、
特に週刊新潮には、(名刺をもらった記者もいる中)田原節子さんの容姿が問題なのではなく、”中身””資質”の問題なのだと主張する、ひどい記事を書かれたのだそうです。
それでも、結局、裁判には勝訴したそうで、実際に勝訴となると、
会社とケンカをしてもこんなに楽しく会社員できるよ
ということを見せたい、という気持ちになったそうで、
裁判をしてから10年、
もう辞めよう、もう辞めよう
と、思いながらも、日本テレビで働き続けたのだそうです。
田原節子が40代の時にはCMプロデューサーとして活躍していた
その間、田原節子さんは、CMを制作する現場でプロデューサーとして働いていたそうですが、
1980年代に作った、
覚せい剤やめますか?それとも人間やめますか?
というコピーが有名になったそうです。
また、カンヌのCM映画祭に参加すると、賞ももらったそうで、
人事の人には、
(アナウンサーよりも)プロデューサーの方が向いている
と、言われたそうです。
田原節子が50代の時には日本テレビを早期退職するほか田原総一朗と再婚
50歳の時に日本テレビを早期退職
そんな田原節子さんは、CMプロデューサーとして10年働き、ちょうど50歳の時に早期退職したそうですが、
田原節子さんは、その理由について、
会社を辞めたのは、会社が若返りを計っていて、50才までに辞めると退職金を増すって言われたから。
もちろん働き続けた方がお金は入る。それでもね、もう、いいかな、と。自分の時間が欲しかったのね。それまで、ずっとずっと働き続け、闘い続けていたから。さぁ、これからは1人、ノンフィクションを書こう、って思った。
と、語っています。
53歳の時に田原総一朗と再婚
その後、田原節子さんは、1989年に、田原総一朗さんと再婚しています。
実は、前夫(最初の夫)とは、籍を入れたままずっと別居状態にあり、前夫にも交際相手がいたそうで、前夫の交際相手に子供ができ、その子供が幼稚園に入園することをきっかけに離婚したのだそうです。
(田原総一朗さんも妻帯者だったことから、トリプル不倫でした)
田原節子さんと田原総一朗さん。
田原節子の死因は乳がん(余命6ヵ月の宣告を受けていた)
62歳の時に炎症性乳がんを発症し、余命6ヵ月の宣告を受けていた
田原総一朗さんと再婚した田原節子さんは、自ずと、田原総一朗さんのマネージャーとして仕事をするようになったそうですが・・・
そんな中、1998年10月、62歳の時、炎症性乳がんを発症して余命6ヵ月の宣告を受けてしまったといいます。
68歳で死去
その後、田原節子さんは、再発転移を繰り返し、抗ガン剤治療を続けていたそうですが、その間も、乳ガンを中心とする医療、女性問題などに関する執筆講演活動を積極的に行っていたそうで、
田原節子さんは、2003年の取材では、
今、私はなにもしないで病気してるだけなんだけど。でも、病気したおかげで、ああいう本(田原総一朗さんとの共著「私たちの愛」)を書いた。
あれ病気しなかったら書いてない。病気しなかったら、あなたたち(2003年に田原節子さんにインタビューをした北原みのりさん)にも会ってない。
あの本のおかげで、いろいろな人に巡り会えているわけ。今、できる限り、しゃべっていこうと思うし。書いていこうと思ってます。
と、意欲を語っています。
ただ、そんな田原節子さんも、それから1年後の2004年8月13日、多臓器不全により、68歳で他界されたのでした。
「田原節子の前夫は?再婚相手・田原総一朗との馴れ初めは?子供は娘が3人!」に続く
1959年、日本テレビにアナウンサーとして入社すると、1970年代には、女性解放運動(ウーマン・リブ)もしていた、田原節子(たはら せつこ)さん。 そんな田原節子さんは、プライベートでは、結婚を2回し、離婚を1回している …