1959年、映画「少年探偵団 敵は原子潜航挺」の主演で俳優デビューすると、その後は、「不良番長」シリーズ、「帝王」シリーズ、「仁義なき戦い」シリーズなどの映画で主演を務め、ニ枚目スターとして日本映画の黄金時代を支えた、梅宮辰夫(うめみや たつお)さん。

そんな梅宮辰夫さんは、小中学時代から、”番長”的な目立つ存在だったそうですが、高校時代には、父親の経営する「梅宮医院」の跡継ぎに期待され、大学は医学部を受けるも、不合格になっていたといいます。

そんな中、滑り止めで受かっていた大学に進学したそうですが、大学在学中、「東映ニューフェイス」試験を薦められ(スカウトされたという話も)、冷やかし半分で応募したところ、応募者約3万5000人中16人の合格者の一人に選ばれたといいます。

今回は、梅宮辰夫さんの生い立ち(幼少期から東映ニューフェイスに合格するまで)をご紹介します。

梅宮辰夫

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梅宮辰夫のプロフィール

梅宮辰夫さんは、1938年3月11日生まれ、
満洲国 浜江省ハルビン市(現・中国黒竜江省ハルビン市)の出身、

身長174センチ、
体重75キロ、

血液型はA型、

学歴は、
茨城大付属愛宕小・中学校(現茨城大付属小・中学校)
⇒早稲田高等学校
⇒日本大学法学部中退

趣味は、料理、

特技は、ライフル、剣道、

だそうです。

梅宮辰夫は満洲で誕生し7歳の時に終戦を迎えていた

梅宮辰夫さんは、満洲国ハルビン特別市で満鉄病院に勤務していたお父さんの次郎さんのもと、5人きょうだい(弟2人妹2人)の長男として誕生したそうですが、その後、次郎さんの異動により、一家は開原市(現・中華人民共和国遼寧省)に移住したそうです。

そして、1945年、梅宮辰夫さんが7歳の時、この土地で太平洋戦争の終戦を迎えると、翌年の1946年には、満洲から引き揚げ、信濃丸で博多港に帰国したそうです。

梅宮辰夫の小中学生時代は”番長”的存在だった

その後、満洲から帰国して半年後には、お父さんが茨城県水戸市末広町の米穀店倉庫を借り、内科医院を開業したことから、一家で転居したそうで、

(お父さんは、その後、近くの同市八幡町に医院と自宅を新築したそうです)

梅宮辰夫さんは、茨城大付属愛宕小・中学校(現茨城大付属小・中学校)に小学4年生から中学3年生までの6年間通ったそうです。

ちなみに、梅宮辰夫さんは、”番長”的な目立つ存在だったそうで、

梅宮辰夫さんの地元の同級生や知人らは、梅宮辰夫さんのことを、

男らしく格好良かった

と、語っているほか、

少年時代に梅宮辰夫さんとよく遊んだという、人形店「祐月本店」会長の和田祐之介さんは、

先輩なので少し怖い一面もあったが、学校ではとても目立つ存在。仲間から『梅辰』などとあだ名でからかわれると、怒っていた覚えがある

と、語っています。

梅宮辰夫は高校時代には剣道部を創設し3年間主将を務めていた

また、水戸市に転居してから10年後には、お父さんが、近くに親戚のいた東京都品川区戸越銀座で、内科・小児科を診療科目とする「梅宮医院」を開業することになり、一家で東京都品川区戸越銀座に移住したそうで、

梅宮辰夫さんは、早稲田高等学校に進学すると、すぐに、自分で剣道部を創設し、3年間主将を務めたそうです。

梅宮辰夫は父親の「梅宮医院」の跡継ぎと期待され大学の医学部を受験するも不合格となっていた

そんな中、長男だった梅宮辰夫さんは、お父さんに「梅宮医院」の跡継ぎとして期待され、大学の医学部を受験したそうですが・・・

不合格となってしまい、滑り止めで受けていた日本大学法学部に入学したのだそうです。

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梅宮辰夫は大学2年生(20歳)の時に東映ニューフェイス5期生に合格

そんな梅宮辰夫さんは、大学在学中、日東紡でモデルのアルバイトなどもしていたそうですが、大学2年生の時、「東映ニューフェイス」試験を薦められ(スカウトされたという話も)、ダメ元の冷やかし半分で応募したところ、

なんと、応募者約3万5000人中16人の合格者の一人に選ばれたそうで、1958年、20歳の時、「東映ニューフェイス5期生」に合格したのだそうです。

ちなみに、梅宮辰夫さんは、この時は、

1年くらいやろうかな…

と、腰掛け感覚だったといいます。

「【画像】梅宮辰夫の若い頃がイケメン!デビューからの経歴を時系列まとめ!」に続く

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