マジシャン・引田天功(初代)さんの娘として誕生すると、10代の頃は、アイドルグループ「少女隊」のメンバーとして活躍し、「少女隊」解散後は、ソロ歌手、声優、グラビアモデルとして活動していた、引田智子(ひきた ともこ)さん。
今回は、そんな引田智子さんの、若い頃から現在までの経歴を、デビューから時系列でまとめてみました。
引田智子のプロフィール
引田智子さんは、1972年11月3日生まれ、
東京都港区の出身、
身長150センチ、
血液型はO型、
ちなみに、「引田智子」は本名で、結婚後は「村上智子」、少女隊時代の愛称は「トモ」です。
また、お父さんは、マジシャンの引田天功(初代)さんで、声優の引田有美さんは異母姉です
(引田有美さんは、引田天功さんと前妻の小桜京子さんの間に誕生した娘ですが、引田智子さんのお母さんは小桜京子さんではなく、一般人です)
引田智子は11歳の時に「タモリのキラキラ美少女コンテスト」で3位に入賞し芸能界入り
引田智子さんは、1983年7月16日、11歳の時、日本テレビの「タモリのキラキラ美少女コンテスト」で3位に入賞すると、
このことがきっかけで、芸能事務所「ボンド企画」にスカウトされて、芸能界入りし、「日清サラダ油」「サッポロ一番」などのCMに出演します。
「タモリのキラキラ美少女コンテスト」より。
引田智子は12歳の時にアイドルグループ「少女隊」に加入
そんな引田智子さんは、1985年8月、12歳の時には、同じ「ボンド企画」所属のアイドルグループ「少女隊」のメンバーだった、チーコこと市川三恵子さんが椎間板ヘルニアにより「少女隊」を脱退したことから、
同年9月11日、新メンバーとして「少女隊」に加入しています。
(「少女隊」はこの時、デビュー1周年でした)
「少女隊」。(左から)藍田美豊(ミホ)さん、安原麗子(レイコ)さん、引田智子(トモ)さん。
引田智子が12歳~17歳の時は「少女隊」で活躍していた
すると、「少女隊」は、もともとアーティスト路線だったところ、引田智子さんが新メンバーとして加入後、秋元康さんがプロデュースを担当することになって、アイドル路線に変更になったそうで、
3枚目のシングル「素直になってダーリン」が「ザ・トップテン」に初ランクインするほか、テレビドラマ「夏・体験物語」の挿入歌「Bye-Byeガール」が「ザ・ベストテン」にランクインするなど、徐々に人気が上昇。
「素直になってダーリン」
さらには、1986年と1987年には、初の東南アジアツアーを開催するほか、1988年には、ソウルオリンピックのイメージソング「Korea」を歌い、韓国でも大ブレイクするなど、当時としては、異例のアジア向けのマーケティングを成功させており、
引田智子さんは、
1989年の解散まで楽しいことばかりでしたね。今はアジア向けプロモーションは普通だけど、少女隊はいわばその先駆けみたいな存在だったでしょ。
1986年、1987年と東南アジアツアーを成功させ、香港やシンガポール、マレーシア、タイなどでは日本を上回る人気だった。もう最高の思い出です
と、語っています。
「Bye-Byeガール」
(「少女隊」は、1983年に、藍田美豊(ミホ)さん、安原麗子(レイコ)さん、市川三恵子(チーコ)さんの3名でデビューしているのですが、アーティスト路線を狙っていたことから、テレビなどのメディアへの出演が少なかったことに加え、1984年には、出演した江崎グリコのCM「マリンバ」が、ちょうど同時期に起きた「グリコ・森永事件」の影響で放送が延期され、さらに、1985年には、市川三恵子さんが椎間板ヘルニアを患って芸能活動が困難になり、まだブレイクには至っていませんでした)
引田智子は「少女隊」解散後はソロ活動を経て芸能界を引退していた
その後、1989年に「少女隊」が解散となると、引田智子さんは、ソロ歌手、声優、グラビアモデルとして活動していたそうですが、
ある時、だまされてオールヌードを撮られそうになったそうで、これに嫌気が差して芸能界を引退すると、それから約2年間は、薬局、酒屋、銀座コージーコーナー、カラオケボックスなど、接客業を中心にアルバイトをしていたといいます。
(アイドル時代を知るファンが、アルバイト先に押しかけてきて、どこも長く続けることはできなかったそうです)
引田智子は27歳の時「1999少女隊」再結成も同年に結婚で完全に芸能界を引退
それでも、引田智子さんは、声優で一時復帰し、1999年、27歳の時には、安原麗子(レイコ)さん、市川三恵子(チーコ)さんと共に、「1999少女隊」を結成するのですが、
同年秋には、結婚により、完全に芸能界を引退しています。
1984年、「胸騒ぎ、ザワ、ザワ、ザワ」のキャッチコピーでデビューした、女の子3人組のアイドルグループ「少女隊」。巨額の資金を投入し売り出されるも、当初は、事務所の戦略がうまくいかず、なかなか人気が出ませんでしたが、19 …
引田智子の30代~現在(50代)は化粧品販売会社「ソシエテ・ルレーブ」の責任者として活動
その後、引田智子さんは、2005年3月、32歳の時には、化粧品販売会社「ソシエテ・ルレーブ」を設立したそうで、責任者として、メディカルエステと化粧品の開発・販売を手掛けているといいます。
また、医療関係者の人材派遣を行う会社の責任者も任されているそうで、
引田智子さんは、2009年、取材に対し、
今の仕事?メディカルエステも化粧品も、効果のほどがお客さまからダイレクトに伝わってきて、すごくやりがいを感じてます。日本だけじゃなく、少女隊と同様、海外にも進出していきたいですね
と、語っています。
1953年、奇術師・松旭斎天洋さんの門下生となると、1960年には、松旭斎天洋さんから独立し、1963年には、”水槽大脱出”を成功させると、以降、テレビメディアと組んだ大規模な脱出イリュージョンの …