1970年、映画「野性の少年」で字幕翻訳家としてデビューすると、以降、年間50本のペースで字幕翻訳を手がけるようになり、著名な字幕翻訳家の一人となった、戸田奈津子(とだ なつこ)さん。
そんな戸田奈津子さんは、終戦後の11歳~12歳の頃、焼け野原となった東京で、映画館に連れて行ってもらって映画に夢中になり、中学校・高校・大学時代は映画館に通い詰めるようになると、やがては、スクリーンの中で俳優たちが話す英語に憧れ、字幕翻訳家になりたいと思うようになったといいます。
今回は、戸田奈津子さんの生い立ち(幼少期から大学時代まで)をご紹介します。
戸田奈津子のプロフィール
戸田奈津子さんは、1936年7月3日生まれ、
福岡県戸畑市(現・北九州市戸畑区)の出身、
学歴は、
お茶の水女子大学附属幼稚園
⇒お茶の水女子大学附属小学校
⇒お茶の水女子大学附属中学校
⇒お茶の水女子大学附属高等学校
⇒津田塾大学学芸学部英文学科卒業
ちなみに、「戸田奈津子」は本名です。
戸田奈津子は1歳の時に父親が戦死していた
戸田奈津子さんは、銀行員のお父さんと専業主婦のお母さんのもと、福岡県戸畑市(現在の北九州市戸畑区)で誕生したそうですが、翌年、戸田奈津子さんが1歳の時、日中戦争が勃発すると、お父さんは軍隊に召集されて戦死したそうで、
戸田奈津子さんは、お母さんに連れられて、お母さんの実家がある東京・世田谷に転居し、お母さんとおばあちゃんと3人で暮らすようになったそうです。
(その頃、手に職のない女性たちのために、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)で2年ほど勉強すると教員資格を取れるコースが設けられたそうで、お母さんもそこに入学したそうですが、同じ敷地内に付属の幼稚園があったため、戸田奈津子さんも一緒に通うようになり、そのまま、小中高とお茶の水女子大附属に通ったのだそうです)
戸田奈津子は8歳の時に東京大空襲により父方の実家がある愛媛に疎開していた
そんな中、やがて、日中戦争は太平洋戦争へと拡大すると、1945年3月10日(戸田奈津子さん8歳)には、東京大空襲があり、戸田奈津子さん一家は、そのあまりの恐ろしさに疎開することになったそうですが、母方には、田舎に頼れる親戚はおらず、お父さんの実家のある愛媛県西条市に疎開したそうです。
そして、同年8月15日、終戦を迎えると、世田谷の家は幸い焼け落ちることなく無事だったそうですが、人に貸していたため、すぐには戻れず、翌年の1946年に帰京できたそうです。
ちなみに、戸田奈津子さんは、疎開生活について、
私の人生の中で、この1年間だけが、都会を離れて田園の中で暮らした時期。みんな親切にしてくれたし、それはそれなりに楽しかったですよ
と、語っています。
戸田奈津子は11歳~12歳頃にアメリカやヨーロッパの映画に夢中になっていた
ただ、世田谷の実家には戻ったものの、東京は焼け野原で食料がなかったほか、お母さんの兄や妹も焼け出されていたことから、何世帯もの親戚が一緒に暮らすことになったそうで、お母さんは、教職には戻らず、会社勤めをして家計を支えてくれたそうです。
そんな中、戦時中は禁止されていたアメリカやヨーロッパの映画が次々と解禁されたそうで、お母さんや親戚に連れられて、焼け野原の映画館に映画を観に行くと、戸田奈津子さんはたちまち夢中になったそうで、
戸田奈津子さんは、その時のことを、
映画を見て、大変なカルチャーショックを受けました。特にアメリカ映画にはバラ色の世界が描かれていました。戦後の、食料が一番なかった時期で、日本にはまだ電気冷蔵庫もなかったのに、映画では何か大きな白い箱を開けると、食べ物がいっぱい入っているわけです。
同じ地球にこんなところがあるとは信じられませんでした。まるでSFで別の惑星のことを見ているような気がしました。あのショックは、今の時代の人たちには絶対にわかってもらえないと思います
と、語っています。
(日本には、ほかに娯楽が何もなかったことから、映画館には、お客さんが入り切らないほど詰めかけていたそうです)
戸田奈津子は中学1年生の時に英語の授業がつまらなく英語への情熱を失いかけていた
その後、戸田奈津子さんは、映画の世界を知りたくて映画雑誌をむさぼり読むほか、スクリーンで俳優たちがしゃべっているのと同じ言葉を話したいと思うようになったそうで、
中学校では、英語を学べると知り、大好きな映画の世界に近づけると楽しみにしていたそうですが・・・
中学校進学後、一番最初に習った英語はというと、発音記号だったそうで、あまりのつまらなさに、英語が嫌いになりそうになったといいます。
ただ、幸い、中学2年生の時にその先生は退職したそうで、次に来た先生がとてもいい先生だったことから、戸田奈津子さんは、再び、英語への情熱を取り戻したそうで、
戸田奈津子さんは、
レベルの高い授業をなさる女の先生で、和文英訳の宿題などを出して、英語が好きになるように、うまく生徒を引っ張ってくださったのです
と、語っています。
ちなみに、この頃、戸田奈津子さんは、英語が読めないおばあちゃんのために、頼まれもしないのに海外の写真雑誌のキャプションを訳していたそうですが、
こんなに面白くて素敵な情報を独り占めするのはよくない
との気持ちがあったそうで、
その気持ちがいまの仕事の基礎になっているように思えます
と、語っています。
戸田奈津子は高校・大学時代に名画座に通い詰めていた
そんな戸田奈津子さんは、中学生の時から、一人で映画館に通うようになったそうで、
高校生の頃には、お小遣いを切り詰めて、50円や100円で3本立てや4本立てを観ることのできる名画座に通うようになると、
大学進学後は、友達に授業の代返をお願いし、映画を観に行くようになったのだそうです。
戸田奈津子は大学3年生の時に映画の字幕翻訳者に憧れるもどうすればいいか分からず途方に暮れていた
そして、大学3年生の終わり頃、進路を考える時期に、
友人から、
就職どうするの
と、尋ねられた際、
無意識に、
映画の字幕翻訳をやろうかな
と、答えたそうですが・・・
業界へのパイプがあるわけはなく、そもそも、誰がどこでどういう仕組で字幕を作っているのか、どこにアプローチすれば仕事になるのか、全く見当がつかず、途方に暮れたのだそうです。
「戸田奈津子の若い頃(下積時代)は?大学からフリー翻訳家時代までの経歴を時系列まとめ!」に続く
就職活動の時期、映画の字幕翻訳家に憧れるも、どうすれば翻訳家になれるのか分からず、スクリーンの隅にあった字幕翻訳家の清水俊二さんに手紙を書き送るも断られ、その後は、字幕へのチャンスを伺いながら、フリーランスで翻訳の仕事を …