1968年、「山谷ブルース」でデビューすると、以降、社会的タブーに鋭く踏み込んだメッセージ性の強い曲を発表し、特に、反戦フォークソングが多くの若者の心をつかみ、”フォークの神様”と称されるようになった、岡林信康(おかばやし のぶやす)さん。
そんな岡林信康さんは、実家が教会だったことから、小・中・高校時代は熱心なクリスチャンで、高校3年生の時には、お父さんの跡を継いで牧師になることを目指し、同志社大学神学部に入学したそうですが、
その後、信仰に疑問を持ち、すっかりやる気を失うと、知り合いの牧師のアドバイスもあり、夏休みに山谷のドヤ街で肉体労働に励んだといいます。
今回は、岡林信康さんの幼少期(生い立ち)から22歳の時に「山谷ブルース」でレコード・デビューするまでをご紹介します。
岡林信康のプロフィール
岡林信康さんは、1946年7月22日生まれ、
滋賀県近江八幡市の出身、
血液型はO型、
学歴は、
近江兄弟社中学
⇒滋賀県立八日市高等学校
⇒同志社大学神学部中退
ちなみに、「岡林信康」は本名だそうですが、父方は上杉謙信の子孫で、もともとは「下杉」という名字だったそうです。
また、「信康」という名前は、キリスト教信仰の「信」、3歳で病死したお兄さんがいたことから、次に生まれてくる子は健康であってほしいという両親の願いから「康」が取られ、「信康」と名付けられたそうです。
岡林信康は小・中学生時代はミッションスクールで学芸会と運動会で活躍していた
岡林信康さんは、キリスト教会の牧師であるお父さん・岡林勝治さんのもとに誕生すると、幼稚園、小学校、中学校とミッションスクールに通っていたそうで、
(ミッションスクールとは、キリスト教の精神に基づいて設立された学校、またはキリスト教系の学校)
小・中学生の頃は、勉強は苦手だったそうですが、学芸会や運動会では活躍し、まるでスターのような存在だったそうです。
また、中学生の頃は、鳩の飼育にも夢中になったそうで、鳩を触っている時は至福の時間だったそうです。
岡林信康は高校はミッションスクールでなく公立高校に進学すると厳しい環境に高2で不登校になっていた
そんな岡林信康さんは、中学生時代、3年生も終わりに近づき、進路を考える時期になった頃、通学していたミッションスクールには高校もあったそうですが、思い切って、ミッションスクールを出て、公立高校へ進学することを決意したそうです。
ただ、進学した公立高校は、元兵舎を改造利用した木造のボロボロの校舎で、冬でも(木造で火事の危険があるとの理由で)教室にストーブはなく、コートを着たまま授業を受けなければならないほど、厳しい環境だったそうで、
これまで、浮世離れしたおとぎ話の世界にあるようなミッションスクールで育った岡林信康さんは、現実を思い知らされ、次から次へとカルチャーショックを受ける毎日だったそうです。
そして、ついに、高校2年生の時に、不登校となってしまったのだそうです。
岡林信康は高校3年生の時に父親の跡を継いで牧師になる決意をしていた
そんな岡林信康さんは、虚しい日々の中、鳩の飼育にやすらぎを見出していたそうですが、
それも高校2年生の時にやめてしまい、高校3年生の時には、お父さんが牧師を務める教会の伝道活動に生きがいを見出し、お父さんの跡を継いで牧師になる決意をしたそうです。
岡林信康は同志社大学神学部に一浪の末に入学していた
その後、岡林信康さんは、高校卒業後の1965年、同志社大学神学部を受験したそうですが、ろくに受験勉強をしていなかったせいで、不合格となってしまったそうで、一浪の末、同志社大学神学部に入学したそうです。
というのも、
同志社大学神学部は、牧師の息子なら答案用紙に名前さえ書いておけば合格する
という言葉を信じ、受験勉強をせずに入試に臨んでいたのだそうです。
ちなみに、浪人中、友達がギターを置かせてほしいと持ってきたそうで、この時、ギターの弾き方やコードを教えてもらったそうですが、このことがきっかけで、かねてからあった加山雄三さんへの憧れもあり、ギターを始めたそうです。
岡林信康は大学在学中に山谷のドヤ街で日雇労働者生活を体験していた
すると、今度は、同志社大学神学部に入学したことで目標を失ってしまい、もともと学校が嫌いだったこともあり、入学して3日で講義に出席しなくなり、クラブ活動のボクシングをやるためだけに通学する毎日を送るようになったそうです。
(これまで、熱心なクリスチャンだった岡林信康さんですが、信仰に疑問を持つようになったという話も)
それでも、これではいけないと思い悩む中、夏休みに、ひょんな事から東京の山谷で布教活動をする牧師さんと知り合うと、
君も山谷のドヤ街に入り肉体労働をして社会の現実を知りなさい
と、言われたそうで、
このアドバイスに従い、岡林信康さんは、ドヤ街に住み込み、日雇い労働者のように肉体労働に励んだそうで、
岡林信康さんは、
今まで信じていたもの全てがひっくり返るようなショックを受け、人生観、社会観が一変。
と、語っています。
そして、夏休みが明けると、ボクシングのために大学に通うかたわら、気が向くと上京し、山谷で肉体労働をしたのだそうです。
岡林信康は20歳の時に高石友也のコンサートに感銘を受け音楽活動を開始していた
そんな中、1967年6月、地元・滋賀の近江八幡で行われた高石友也さんのコンサートを観に行くと、感銘を受けたそうで、
自分の中にたまっているものを歌にして吐き出したら気持ちが良いだろうな。俺もやりたい!
と、思い、
浪人中に少しばかりいじったギターを本格的に始めると、我流で作詞作曲も始めたのだそうです。
そして、1967年11月23日には、滋賀県のキリスト教会で行われた高石友也さんコンサートに飛び入り参加すると、このことがきっかけとなり、音楽活動をするようになったそうで、
自作曲を聴いてくれるならと、コンサートとは呼べないような小さな集まりにも積極的に出かけていって歌うようになったのだそうです。
岡林信康は22歳の時に「山谷ブルース」でレコード・デビュー
そして、1968年1月には、同志社大学を中退すると、琵琶湖干拓地の入植者住宅建設工事の飯場に住み込みで働き始め、肉体労働をしながら、時々、コンサートで歌を歌うようになったそうで、
1968年3月27日には、大阪サンケイホールで行われた「アングラ音楽祭」に、当時、大流行していたフォーク・クルセダーズや高石友也さんらと共に出演すると、大喝采を浴び、新聞にも取り上げられ、
フォーク・クルセダーズや高石友也さんが所属する事務所「高石音楽事務所」から「うちでやらないか」と誘われ、同年9月、22歳の時には、山谷に住む日雇い労働者を題材とした「山谷ブルース」でレコード・デビューを果たしたのでした。
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