1968年にデザイン事務所に入社するも、1973年に倒産したことから、その後、フリーのコピーライターとして活動を開始し、コピーライター以外にも、作詞、文筆(誌、小説、エッセイ)、ゲーム製作など、様々な分野で創作活動を展開している、糸井重里(いとい しげさと)さん。

そんな糸井重里さんは、物心ついた頃にはお母さんが家を出ていき、お父さんと離婚したことから、父子家庭でお父さんとおばあちゃんに育てられたそうで、

その後、小学2年生の時にお父さんが再婚し、新しいお母さんがやってきたそうですが、新しいお母さんは、甘えさせてくれるような人ではなかったそうで、嫌いではなかったものの遠い存在に感じていたといいます。

今回は、糸井重里さんの、生い立ち(幼少期からフリーランスになるまで)をご紹介します。

糸井重里

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糸井重里のプロフィール

糸井重里さんは、1948年11月10日生まれ、
群馬県前橋市の出身、

身長174センチ、

血液型はA型、

学歴は、
前橋市立桃井小学校
⇒前橋市立第一中学校
⇒群馬県立前橋高等学校
⇒法政大学文学部日本文学科中退

趣味は、ゴルフ、釣り、

特技は、モノポリー、

ちなみに、「糸井重里」は本名で、名前の由来は、お父さんがスタンダールの小説「赤と黒」の主人公・ジュリアン・ソレルに憧れ、「重里」(音読みで「ジュリ」)と名付けたのだそうです。

ただ、糸井重里さん自身は、この珍しい名前が嫌で、普通の名前に憧れていたそうです。

糸井重里は幼い頃に母親が家を出ていき両親が離婚していた

糸井重里さんは、司法書士だったお父さんのもと誕生したそうですが、物心つく前にお母さんが家を出ていき、両親が離婚したことから、お父さんとおばあちゃんに育てられたそうです。

(当時、田舎では父子家庭は珍しかったそうです)

糸井重里は小学生の時の母の日に母親がいないことを表す白いカーネーションを配られ恥ずかしい思いをしていた

そんな糸井重里さんは、小学生の時、母の日に、

みんなお母さんにカーネーションを渡しましょう

と、赤いカーネーションが配られたそうですが、母親がいない子どもたちは白いカーネーションが配られたそうで、

泣くわけにはいかず、かといって、悲しそうな素振りを見せるわけにもいかず、みんなと違うということが、ただただ、恥ずかしかったそうです。

糸井重里が小学2年生の時に父親が再婚していた

そんな中、糸井重里さんが小学2年生の時、お父さんは再婚したそうですが、

それまで、親戚、近所、学校と、どこに行っても、おかあさんがいない”かわいそうな子”扱いをされていたことから、新しいお母さんができたことで、特別ではなくなることがとても嬉しかったそうです。

ただ、既に、新しいお母さんに甘える年でもなく、また、新しいお母さんは甘えさせてくれる人でもなかったことから、その関係は難しく、大嫌いというわけではなかったそうですが、新しいお母さんを遠い存在に感じていたそうです。

また、ある時、糸井重里さんが布団に入った後、隣の居間から何やら話し声が聞こえてきたそうで、それは、お父さん、おばあさん、新しいお母さんが、糸井重里さんについて、家族会議をしていたそうですが、

新しいお母さんが、

あの子は、ことばにトゲがある

と、言っているのが聞こえたそうで、

自分の人生を決定づけたと言ってもいいほど、悲しかったそうです。

糸井重里は高校時代はバンド活動に熱中していた

そんな糸井重里さんは、幼い頃から漫画が好きで、漫画家に憧れていたそうですが、

高校時代は、ビートルズに憧れ、バンド「ザ・ポップコーン」を結成するなど、音楽活動にも熱中したそうです。

糸井重里の大学時代は学生運動にのめり込み5回も逮捕されていた

糸井重里さんは、高校卒業後は、法政大学に進学すると、4畳半のアパートにこもり、誰にも会わずに漫画を描こうと決めていたそうですが、

学生運動にのめり込み、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争では闘争委員長まで務めたそうです。

(その間、5回も逮捕されたそうで、学校に行っては捕まっていたそうです)

糸井重里は法政大学を1年で中退してブラブラしていた

しかし、内部抗争の陰険さが嫌で、大学を1年半で中退すると、その後は、映画を見て、パチンコをし、本を読んで、友達に会う、という繰り返しをしていたそうで、仕事もせずに、ブラブラしていたそうです。

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糸井重里は24歳の時にコピーライティングのフリーランスになっていた

そんな中、知人に勧められて、「宣伝会議」のコピーライター養成講座に通うと、1968年、19歳の時、デザイン事務所「サムシング」に就職したそうです。

すると、翌年の1969年には、栗田工業主宰のTVCFアイディア賞で銀賞を、1971年には、金賞を受賞したそうですが、1973年、24歳の時、「サムシング」が倒産し、そのまま、コピーライターのフリーランスとなったそうで、

糸井重里さんは、

会社勤めは考えられませんでした。会社が怖かったし、そもそも大学を中退した身で、会社から受け入れてもらえるとも思えなかった。なので最初から、フリーで食っていく道を探しました。

なんの根拠もないまま「おれはコピーライターというものになれるのかもしれない」と思ったんです。「なれると思った」じゃない。「なれると決めた」ですよ──

と、語っています。

「糸井重里は樋口可南子との不倫が原因で元妻と離婚!娘は池田あんだ!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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