1973年、14歳の時、「ほほえみ」で歌手デビューすると、1975年には、6枚目のシングル「素敵なラブリーボーイ」が大ヒットし、その後も、次々にシングルをリリースして、アイドル歌手として人気を博した、林寛子(はやし ひろこ)さん。
そんな林寛子さんは、現在は、スナックを経営しているという噂がありますが、実際、どうなのでしょうか。
今回は、林寛子さんの、若い頃(歌手デビュー)からのシングルほか経歴と現在の様子をご紹介します。
「林寛子の生い立ちは?幼少期がかわいい!子役時代の出演作品を画像で!」からの続き
林寛子は14歳の時にファーストシングル「ほほえみ」で歌手デビュー
子役として人気を博していた林寛子さんは、1973年には、オーディション番組「君こそスターだ!」に出場しているのですが、いきなり、「第1回グランドチャンピオン」を獲得し、
1974年3月25日(林寛子さん14歳の時)には、ファーストシングル「ほほえみ」でアイドル歌手デビューしています。
「ほほえみ」
ちなみに、林寛子さんは、当時、将来は弁護士になりたいと思っていたことから、お父さんに芸能界をやめたいと言うと、お父さんには、「君こそスターだ!」に落ちたら留学させてあげると言われたものの、
「君こそスターだ!」に合格したことにより、弁護士の夢は消えてしまったそうですが、今となっては、「君こそスターだ!」に受かり、アイドルになれたことで、親孝行もでき、芸能界に導いてくれたお父さんにとても感謝しているそうです。
林寛子は14歳~15歳の時に「昼下がりの夢」「仮病が上手な男の子」「白い窓辺」「日暮れどき」とシングルをリリース
そんな林寛子さんは、その後も、
- 1974年6月25日には、2枚目のシングル「昼下がりの夢」
「昼下がりの夢」 - 1974年9月25日には、3枚目のシングル「仮病が上手な男の子」
「仮病が上手な男の子」 - 1975年1月10日には、4枚目のシングル「白い窓辺」
「白い窓辺」 - 1975年5月10日には、5枚目のシングル「日暮れどき」
「日暮れどき」
と、立て続けにシングルをリリースしています。
林寛子は15歳の時にリリースした「素敵なラブリーボーイ」が大ヒット
そして、1975年9月10日、15歳(高校1年生)の時、6枚目のシングル「素敵なラブリーボーイ」をリリースすると、
それまでのおっとりとしたイメージをくつがえすパンチのきいた歌声で、オリコン最高31位となる大ヒットを記録したのでした。
「素敵なラブリーボーイ」
(この「素敵なラブリーボーイ」は、1982年に小泉今日子さんがカバーし、さらなる大ヒットを記録しています)
林寛子は17歳~18歳の時に「カモン・ベイビー」「危険がいっぱい」「気になるあいつ!」「私がブルーにそまるとき」ほかをリリース
そんな林寛子さんは、その後も、
- 1976年1月10日には、「カモン・ベイビー」
「カモン・ベイビー」 - 1976年3月25日には、「危険がいっぱい」
「危険がいっぱい」 - 1976年8月10日には、「気になるあいつ!」
「気になるあいつ!」 - 1977年1月25日には、「私がブルーにそまるとき」
「私がブルーにそまるとき」 - 1977年4月25日には、「恋はお伽話じゃないから」
「恋はお伽話じゃないから」 - 1977年8月21日には、「マリオネット」
「マリオネット」 - 1978年8月21日には、「50・50」
「50・50」
と、次々とシングルをリリースしています。
林寛子は17歳の時に「がんばれ!レッドビッキーズ」で主演
また、林寛子さんは、1978年、17歳(高校3年生)の時には、弱小少年野球チームの成長を描いたテレビドラマ「がんばれ!レッドビッキーズ」で、主人公の江咲令子役を演じているのですが、
この頃、林寛子さんは、大変な売れっ子だったため、夜行列車で仙台に行き、朝に東京に戻って登校し、翌日はハワイでCMの撮影といった、めちゃくちゃなスケジュールをこなしていたそうで、
「がんばれ!レッドビッキーズ」の撮影があった年は、高校3年生だったことから、卒業のための単位を取ることと、「がんばれ!レッドビッキーズ」の撮影だけに専念させてもらったそうです。
「がんばれ!レッドビッキーズ」より。
ちなみに、林寛子さんは、後に、
後年、デーブ大久保さんから「ビッキーズを見て野球を始めた」と聞かされたり、トータス松本さんの芸名は「ビッキーズ」のトータス(メンバーの中で一番最年少の小学1年生でいつも小さなミドリガメ「トータス」を持ち歩いていたことからこのあだ名がつけられました)から付けたと知ったり、想像以上に多くの人に影響を与えていたドラマだったんだと感じました。
と、語っています。
林寛子は結婚後の20代~40代はバラエティのコメンテーターとして活動
そして、1980年4月、20歳の時には、映画プロデューサーの黒澤久雄さんと結婚すると、
その後は、主にバラエティ番組のコメンテーターとして出演しています。
(黒澤久雄さんとは2003年に離婚しています)
林寛子は48歳の時にカラオケサロン「ラブリー寛寛」をオープンし65歳の現在も営業中
そんな中、近年はメディアに登場する機会が少なくなっていた林寛子さんですが、
2007年、48歳の時、東京都大田区にカラオケサロン「ラブリー寛寛(かんかん)」をオープンしたことが、週刊誌の取材などで明らかとなり、
林寛子さんは、カラオケ店をオープンした理由について、
きっかけは“歌う場所が欲しい”と思ったことです。歌のお仕事で呼ばれることはあっても、年に数本。もっと毎日のように歌いたかったんです。
もっと言うと、テレビに毎日出て、芸能のお仕事に携わっていたい。でも、それは難しい。じゃあ、自分で何かやるしかない、ワタシが得意なものは何か、歌だ、と考えたときに、たまたま本屋さんで店を開くためのハウツー本を見つけ、『これだ!』と思い、その本と首っ引きでこの店をつくったんです
と、明かしています。
(“私の歌を聴いていただき、お客さまも歌えるカラオケ店”を目指して、出身地の大田区で物件を探し、自身で内装をデザインして、3ヶ月で1000万円をかけて施工したそうです)
ちなみに、林寛子さんは、2025年4月(林寛子さん65歳)、バラエティ番組「ぽかぽか」に生出演しているのですが、その際には、「ラブリー寛寛」で、毎月、昼間に開かれているカラオケイベント大会の様子が紹介され、
往年のヒット曲「素敵なラブリーボーイ」を熱唱する林寛子さんに合わせて、ファンの人達が、
ひろこ ひろこ ひろこ
L・O・V・E・ラブリー かんこ
などのコールで盛りあがっている映像が映し出されています。
(多くの方が”スナック”で検索しているようですが、正確にはスナックではなく、120分フリードリンクのカラオケサロンだそうです)
「林寛子の元夫・黒澤久雄との馴れ初めは?離婚理由は?再婚は?」に続く
幼少期から子役として絶大な人気を博すと、その後もアイドル歌手として引っ張りだことなった、林寛子(はやし ひろこ)さん。 そんな林寛子さんは、プライベートでは、20歳の時、映画プロデューサーの黒澤久雄さんと結婚しているので …