1928年、「仇討流転」で映画監督デビューすると、その後は、傑作喜劇「国士無双」(1932)、「赤西蠣太」(1936)などの名作を世に送り出すかたわら、脚本家としても「無法松の一生」「手をつなぐ子等」など優れた作品を残した、伊丹万作(いたみ まんさく)さん。
そんな伊丹万作さんは、中学生の時に絵を描き始めると、高校卒業後は画家を目指し、独学で絵画の勉強を始めるも、27歳の時に画家の道を断念すると、友人で映画監督の伊藤大輔さんの勧めにより、脚本を書き始めたといいます。
今回は、伊丹万作さんの中学時代(生い立ち)から脚本を書き始める頃までをご紹介します。
伊丹万作のプロフィール
伊丹万作さんは、1900年1月2日生まれ、
愛媛県松山市湊町2丁目の出身、
学歴は、
松山第一尋常小学校(現・松山市立番町小学校)
⇒旧制愛媛県松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)卒業
ちなみに、本名は、池内義豊(いけうち よしとよ)
だそうです。
伊丹万作は中学入学後は回覧雑誌「楽天」で口絵や挿絵を描いていた
伊丹万作さんは、お父さんで官吏の池内義行さんとお母さんのキクヨさんのもと、3人兄妹(妹が2人)の長男として誕生すると、
1912年、中学入学後は、文学や美術に興味を持ち、中村草田男さん、伊藤大輔さん、重松鶴之助さんら仲間たちと回覧雑誌「楽天」を作り、口絵や挿絵を描いたそうです。
(後に、中村草田男さんは俳人、伊藤大輔さんは映画監督、重松鶴之助さんは画家になっています)
伊丹万作は高校卒業後は画家の道を志すも父親に反対されていた
そんな伊丹万作さんは、1917年3月、旧制中学(高校)卒業後は、画家の道を志すも、お父さんに反対されてしまったそうで、
その後、お父さんの仕事の都合で樺太に渡ると、お父さんは綿屋を営み、伊丹万作さんは、伯父さんの店の手伝いをさせられたそうですが、お父さんの商売が失敗したため、約半年の滞在の末、日本に帰国したのだそうです。
伊丹万作は18歳の時に独学で洋画の勉強を始めていた
帰国後、伊丹万作さんは、再び、画家を目指し、叔父さんの柴山猪虎馬さんを頼って上京すると、一旦、柴山猪虎馬さんが勤務していた鉄道省に勤めて、ほどなくして退職し、
1918年2月、18歳の時、少年向け雑誌「少年世界」に掲載されていた、石黒露雄さんの小説「木枯吹く夜」の挿絵を描いて挿絵画家としてデビューしたそうで、
その後、少年雑誌の挿絵などを描きながら、独学で洋画の勉強を始めると、やがて、伊丹万作さんの描く挿絵が人気を博すようになっていったといいます。
伊丹万作は20歳の時に友人の伊藤大輔に松竹キネマ俳優学校の研究生募集に応募するよう勧めていた
そんな中、1920年(伊丹万作さん20歳)、松竹が映画事業を始め、松竹キネマ俳優学校の研究生を募集していることを知った伊丹万作さんが、友人の伊藤大輔さんに応募することを勧めると、
伊藤大輔さんはすぐに上京してきて、伊丹万作さんが間借りしていた本郷区根津須賀町の下宿2階3畳で同居生活を始めたそうで、
伊丹万作さんは、この時のことを、「私の活動写真傍観史」で、
私が十九か二十歳のときに松竹が映画事業をはじめ研究生を募集した。ちようどそのころ伊藤という友だちが呉の海軍書記生をやつており、かたわらしろうと芝居に熱中していた。
ゴーリキーの「どん底」を演してナターシャの役か何かをやつたことなどを報告してきて、しきりに演劇のほうへ進みたい意向をもらしていたやさきなので、私は同じことならこれからは映画のほうが有望だと考え、松竹の試験に応募してみたらどうだとすすめてやつた。
伊藤はすぐに上京して私の間借りしていた三畳の部屋へやつてきた。
と、綴っています。
(伊藤大輔さんは試験に合格して、松竹キネマ俳優学校の生徒となり、一定の給付を受けて通学するようになったそうです)
伊丹万作は25歳の時に回覧雑誌「朱欒」を発表していた
その後、伊丹万作さんは、1922年、22歳の時には、肺病で松山に療養している親友の野田実さんを見舞うために松山に帰省すると、松山ではずっと絵を描いていたそうですが、
1923年5月に、野田実さんが他界したことから、同年末、関東大震災の後、再び上京すると、
1925年、25歳の時には、中村草田男さん、重松鶴之助さんらと共に、回覧雑誌「朱欒」作り、挿絵を担当するほか、随筆、評論、戯曲、小説なども発表し、仲間たちと作品を批評し合ったのだそうです。
伊丹万作は26歳の時におでん屋を開業するも借金を残して閉店していた
ただ、芸術を追求するうち、挿絵の仕事が減って生活が苦しくなったそうで、いよいよ食べていくことができなくなったそうですが、
そんな中、同郷で絵描きだった重松鶴之さんに、一緒に松山でおでん屋をやらないかと誘われ、1926年、26歳の時、松山に帰郷して、重松鶴之さん、白川晴一さんと共に松山市三番町におでん屋「瓢太郎」を開店すると、
当初はうまくいっていたものの、1927年、年明け頃から経営が悪化し、同年夏、借金を残して閉店してしまったそうで、
伊丹万作さんは、「私の活動写真傍観史」に、
こうしているうちに私の生活は一日一日と苦しくなつてきた。二十七の秋にはいよいよ食つて行けなくなつた。絵かきとしての自分を殺すか、人間の自分を殺すか、方法は二つしかなかつた。
ちようどそのときやはり同郷の人で絵をやつていた男が、いつしよに松山でおでん屋をやらないかという相談を持ちかけてきた。
金は何とか都合がつくという。死ぬるよりははるかにいい話なので私は喜んで賛成した。かくて松山の土地に最初のおでん屋が出現した。
このおでん屋は最初は毎日平均二、三十円の売り上げがあつて、うまく行つたが次第にわるくなつてだんだんやつて行けなくなつた。
そのうちいつしよにやつていた友だちが次々と二人ともやめてしまつたので、私は借金といつしよに一番あとに残された。翌年の夏には困つておでん屋を処分したが、あとにまだ借金が残つた。
と、綴っています。
(この頃、伊丹万作さんは、知人夫妻を描いた油彩「市河夫妻之像」が、画家の岸田劉生氏に評価されるほか、友人の中村草田男さんにより第1回大調和美術展に搬入されると、入選したそうですが、画家の道は断念したのだそうです)
伊丹万作は27歳の時に友人の伊藤大輔の勧めにより脚本を書くようになっていた
こうして、借金を抱える身となってしまった伊丹万作さんは、1927年、27歳の夏から秋まで、友人の世話になりながら、ぶらぶらしていたそうで、
秋、友人で映画監督になっていた伊藤大輔さんに手紙を出して就職の世話を頼むと、伊藤大輔さんから温かい返事が届き、10月、伊藤大輔さんの京都の家に転がり込んだそうですが、
この時はまだ、自分が何がしたいのかはっきりしておらず、なんとかして自分で食べていければそれでいいと思っていたそうで、
それならばと、伊藤大輔さんに、脚本を書くように勧められたそうですが、書けと言われて書けるものではないと困っていると、伊藤大輔さんには、無理やりにでも書けと言われ、仕方なく、脚本を書き始めたのだそうです。
「伊丹万作の若い頃は?脚本監督デビューからの映画や著作は?死因は?」に続く
1928年、28歳の時、「仇討流転」で監督デビューすると、以降、知的で明るく、笑いの背後に鋭い風刺を込めた脚本・監督作品を次々と発表し、「國士無双」(1932年)、「赤西蠣太」(1936年)などの映画が高く評価された、伊 …