1955年、映画監督(当時は助監督)の松山善三さんと結婚すると、結婚後も仲睦まじく、穏やかで幸せな日々を送っていたという、高峰秀子(たかみね ひでこ)さん。
今回は、高峰秀子さんの、子供、週刊文春の記者だった斎藤明美さんを養女にした経緯などについてご紹介します。
「【画像】高峰秀子の若い頃から引退までの出演ドラマ映画は?死因は?」からの続き
高峰秀子の子供は?
高峰秀子さんと夫・松山善三さんの間に子供はいません。
その理由について、高峰秀子さんが子供を産めない体だったという話がありますが、真偽は不明です。
高峰秀子は「週刊文春」の記者・斎藤明美を養女にしていた
ただ、高峰秀子さんと松山善三さんは、2009年、「週刊文春」の記者だった斎藤明美(現在は松山明美)さんを養女にしています。
高峰秀子さんと松山善三さんの養女・斎藤明美さん。
斎藤明美さんによると、当時、「週刊文春」の記者だった斎藤明美さんが、高峰秀子さんに寄稿やインタビューのお願いをしたことがきっかけで知り合ったそうで、高峰秀子さんに3年越しで月刊誌の連載をお願いし、ようやく連載が実現したそうですが、
ちょうどその矢先、斎藤明美さんの郷里(高知)のお母さんが難病にかかり、余命を宣告されてしまったそうで、兄弟がいなかった斎藤明美さんが、「週刊文春」の仕事をしながら、3日おきに郷里の高知と東京を往復する生活を続けていたところ、
高峰秀子さんが心配してくれ、斎藤明美さんのお母さんが亡くなった時には、絶望した斎藤明美さんを毎日家に呼んで手作りの温かいごはんを食べさせてくれ、夫の松山善三さんも、やさしく受け入れてくれたそうで、
斎藤明美さんにとって、深い穴からすくい上げてくれた高峰秀子さんと松山善三さんは、大げさではなく、本当に命の恩人のように思っていたそうですが、
そんな中、10年程経った頃、二人から養女の話をされたそうで、本当に驚いたといいます。
高峰秀子の養女・斎藤明美は「ふたり 救われた女と救った男」ほか高峰秀子関連の書籍を発表していた
そんな斎藤明美さんは、現在は、高峰秀子さんの功績を伝える仕事をしており、
2024年には、高峰秀子さんと松山善三さんの56年の愛情物語を一冊にまとめた「ふたり 救われた女と救った男」を出版しています。
斎藤明美は高峰秀子と松山善三の遺産の大半を小豆島町に寄贈
また、斎藤明美さんは、そのほかにも、高峰秀子さんに関する書籍として、
- 「高峰秀子の捨てられない荷物」
- 「最後の日本人」
- 「高峰秀子の流儀」
- 「高峰秀子との20年」
- 「高峰秀子の言葉」
を、出版しており、
斎藤明美さんは、その理由について、
二人が作った映像は残っていくと思うのですが、私は文章を書くことしかできませんから、「こんな人間がいた」ということを活字で残していきたいと思いながら本にしましたし、これからも続けていきたいと思っています。
そして松山と高峰の遺産の大半を二人が交際を始めた地である小豆島町(映画「二十四の瞳」のロケ地)に寄付して、それを小豆島から映像を発信する記念事業に使っていこうということになりましたので、映画界で生きてきた二人の遺志をそのような事業に生かしていければと思っています。
と、語っています。
(斎藤明美さんは作家としても活動しており、1999年には、著書「青々と」が、日本海外文学大賞奨励賞を受賞しています)
「高峰秀子と黒澤明は交際していた!馴れ初めは?破局理由は?」に続く
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