1982年に「安全地帯」に再加入すると、歌心あふれるドラムプレイで「安全地帯」の活動を支え続けた、田中裕二(たなか ゆうじ)さん。
そんな田中裕二さんは、音楽活動のかたわら、独学でカフェの経営を学び、カフェの経営も兼業していたといいます。
今回は、田中裕二さんの、若い頃(「安全地帯」再加入)から他界されるまでの経歴を時系列でご紹介します。
「田中裕二の生い立ちは?玉置浩二と揉め安全地帯を一度脱退していた!」からの続き
田中裕二は26歳の時「安全地帯」として「ワインレッドの心」が70万枚を売り上げる大ヒット
1978年11月、プロデビュー前に、「安全地帯」を脱退した田中裕二さんですが、1982年4月、ドラマーの大平市治さんが脱退したことで、玉置浩二さんに誘われ、再び「安全地帯」に加わると、
1983年11月には、「安全地帯」の4枚目のシングル「ワインレッドの心」(1983年11月25日リリース)が、70万枚を売り上げる大ヒットを記録し、「安全地帯」の名前は、たちまち全国に知れ渡ります。
「ワインレッドの心」
(「安全地帯」は1982年に「萠黄色のスナップ」でレコードデビューすると、その後、「オン・マイ・ウェイ」「ラスベガス・タイフーン」と、シングルを2枚リリースしているのですが、売り上げはパッとしない状態が続いていました)
田中裕二は27歳~29歳の時「安全地帯」として「恋の予感」「熱視線」「悲しみにさよなら」「碧い瞳のエリス」「プルシアンブルーの肖像」「Friend」「好きさ」「じれったい」などが大ヒット
すると、その後も、「安全地帯」は、
- 1984年10月には、「恋の予感」
「恋の予感」 - 1985年1月には、「熱視線」
「熱視線」 - 1985年6月には、「悲しみにさよなら」
「悲しみにさよなら」 - 1985年10月には、「碧い瞳のエリス」
「碧い瞳のエリス」 - 1986年7月には、「プルシアンブルーの肖像」
「プルシアンブルーの肖像」 - 1986年10月には、「Friend」
「Friend」 - 1986年12月には、「好きさ」
「好きさ」 - 1987年4月には、「じれったい」
「じれったい」
と、ヒット曲を連発して、トップミュージシャンの地位を確立しており、
田中裕二さんは、
(「安全地帯」の再加入する選択をしたことについて)ほんと、そのときはこれ以上ないというほど、悩みましたよ。東京に出てきて2年たちましたが、それ以後はトントン拍子でコトが運んだといってもいいくらいですね。
と、語っています。
田中裕二は32歳の時にはバンド「VoThM」を結成していた
しかし、そんな「安全地帯」も、人気絶頂だった1988年に活動休止。
すると、田中裕二さんは、1989年には、元「C-C-B」の渡辺英樹さん、丸山正剛さんと、バンド「VoThM」を結成するのですが、
1990年、「安全地帯」が活動再開すると、「VoThM」を脱退し「安全地帯」の活動に戻っています。
田中裕二は40歳の時にカフェ・レストラン「Y’s cafe」をオープンしていた
ちなみに、「安全地帯」は、その後も、
- 1992年:活動休止
- 2002年:活動再開
- 2003年:活動休止
- 2010年:活動再開
と、活動休止と活動再開を繰り返しているのですが、
そんな中、田中裕二さんは、1994年には、音楽活動と並行して、千葉県白井市にカフェ・レストラン「カフェ・ド・とおやま」(2006年6月1日に「Y’s cafe」に改名)をオープンしています。
(2002年に「安全地帯」が活動を再開した後も兼業していたそうですが、2003年に「安全地帯」が活動を休止すると、以降は、音楽活動を離れ、カフェ・レストラン業に専念したそうです)
カフェで働く田中裕二さん。
ちなみに、田中裕二さんがカフェ・レストランを始めたのは、「安全地帯」の活動休止の多さやギャラの配分事情から、安定した収入を得るためだったといいます。
(「Y’s cafe」は、2006年11月1日には日本紅茶協会により「紅茶のおいしいお店」に認定されたそうです)
田中裕二が56歳の時に「安全地帯」が完全復活を宣言
そんな中、2010年、「安全地帯」が完全復活を宣言すると、田中裕二さんも「安全地帯」に復帰して精力的に活動し、
2017年には、「安全地帯」のデビュー35周年を記念した初のオールタイム・ベストアルバム「ALL TIME BEST」をリリースするほか、
「安全地帯」として、4年振りとなるツアー(日本武道館2days、香港公演)も実施していたのですが・・・
田中裕二の死因は?
田中裕二さんは、2019年、脳内出血を発症して入院することとなり、同年11月16日の兵庫県・阪神甲子園球場で行われた単独公演「安全地帯 IN 甲子園球場 『さよならゲーム』」を欠席。
(ライブに出演するべく、療養とリハビリに励んでいたそうですが、やむなく出演を断念したそうです)
そして、その後も、「安全地帯」の活動を休止し、療養生活を送っていたそうですが、2020年には、カフェ・レストラン「Y’s cafe」も閉店となり、
2022年12月17日、脳内出血のため、65歳で他界されたのでした。
中学2年生の時にドラムを始めると、中学3年生の時には幼馴染だった矢萩渉さんとバンドを結成し、高校進学後は、矢萩渉さんと共に六土開正さんのバンドに参加して、洋楽のコピーを中心に演奏活動を行っていたという、田中裕二(たなか …