1982年2月25日、「安全地帯」として、ファーストシングル「萠黄色のスナップ/一度だけ」でデビューを果たすも、2ヶ月後の4月には、「安全地帯」を脱退したという、大平市治(おおひら いちじ)さん。

実は、大平市治さんは、もともとベースを弾いていたそうですが、「安全地帯」に加入すると同時にドラムに転向したそうで、”練習の虫”と言われるほど熱心にドラムの練習に励んでいたといいます。

今回は、大平市治さんの若い頃(「安全地帯」時代)をご紹介します。

大平市治

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大平市治のプロフィール

大平市治さんは、1958年4月16日生まれ、
北海道の出身、

学歴は、旭川工業高校卒業?

ちなみに、「大平市治」は本名です。

大平市治は19歳の時に玉置浩二に誘われベースからドラムに転向して「安全地帯」に加入していた

大平市治さんは、もともとは、「神居十字街」というバンドでベースを演奏していたそうですが、1977年6月、玉置浩二さんの実兄・玉置一芳さん(ドラマー)が「安全地帯」を脱退したことに伴い、同い年の音楽仲間だった玉置浩二さんに、

俺が鍛えるから

と言われて、(ドラムは未経験だったにもかかわらず)ドラムとして「安全地帯」に加入したそうです。

ちなみに、大平市治さんは、この頃、札幌のラジオに出演した際、インタビューに対し、

全然慣れません。やりいい、やりにくいの問題ではなく、とにかく付いていく

と、語っていたそうで、

その言葉通り、”練習の虫”と呼ばれるほど、四六時中、熱心にドラムの練習に取り組んでいたといいます。

(この頃、「安全地帯」は、アマチュアバンドとして北海道を中心に活動していたそうです)

大平市治が19歳の時「安全地帯」は六土開正、矢萩渉、田中裕二が加入し8人編成となっていた

そんな中、1977年12月、「安全地帯」は、かねてからのライバルで、やがて親交を深めるようになっていたという「六土開正バンド」を吸収合併する形で、六土開正さん(ベース・キーボード)、矢萩渉さん(ギター)、田中裕二さん(ドラム)が加入し、

大平市治さん(ドラム)、玉置浩二さん(ボーカル)、武沢豊さん(ギター)、矢萩渉さん(ギター)、武沢俊也さん(キーボード)、六土開正さん(キーボード)、宮下隆宏さん(ベース)、田中裕二さん(ドラム)を合わせた8人編成となっていたそうで、

ギター、キーボード、ドラムがそれぞれ2人ずつという珍しい編成となっていたそうです。

北海道時代の「安全地帯」
北海道でのアマチュア時代の「安全地帯」。前列左端が大平市治さん。

大平市治は19歳の時に「ミュージカル・ファーマーズ・プロダクション(MFP)」を設立し共同生活を送っていた

その後、大平市治さんら「安全地帯」の8人は、地元の仲間だけで作る音楽で世界を目指そうと考えたそうで、

そのためには、まず、自分たちのスタジオを作ろうと、1978年2月(大平市治さん19歳)、北海道旭川郊外にある永山に一軒の農機具小屋(廃屋)を借り、自分たちで改装工事に取り組むと、

氷点下30度にもなる冬の北海道で、4ヶ月かけて「安全地帯」専用スタジオ(練習場)を完成させたそうで、

ここを「ミュージカル・ファーマーズ・プロダクション(MFP)」と名付け、以降、改装工事での借金200万円を返すため、8人全員でアルバイトをしながら、ここで、メンバー全員で共同生活をして、

2ヶ月に1度開催するコンサートに向けて、連日連夜、練習と曲作りに励んだのだそうです。

大平市治は20歳の時に田中裕二の脱退で「安全地帯」唯一のドラマーとなっていた

そんな中、同年(1978年)11月には、ドラムの田中裕二さんとベースの宮下隆宏さんが脱退したそうで、

大平市治さんは、ドラム経験が浅いながらも、「安全地帯」の唯一のドラマーとして、重要な役割を担うことになったのだそうです。

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大平市治が21歳の時には「安全地帯」は4人となっていた

また、1979年11月には、武沢豊さんが交通事故で重傷を負い、1980年4月には、六土開正さんが病気で長期入院を余儀なくされるなど、メンバーのケガや病気が相次いだそうで、

「安全地帯」は4人となってしまって音楽活動がままならず、2ヶ月に1度のコンサートも中止せざるを得なくなったそうですが、

そんな苦しい時期の「安全地帯」を、大平市治さんは、玉置浩二さん、武沢俊也さん、矢萩渉さんと共に支え続けたのだそうです。

ちなみに、アマチュア時代の「安全地帯」にとって、この時期が最も重要な時期だったそうで、コンサートができない分、デモテープ作りが加速し、3ヶ月で約10曲ものデモテープを制作したそうですが、

この時、作詞は武沢俊也さん、作曲は玉置浩二さんというスタイルが確立したのだそうです。

そして、やがて、大平市治さんたち4人は、

東京に俺達が行くのではなく、俺達でみんな(ファン)を旭川に呼ぶ

と、考えるようになったそうで、

玉置浩二さんは、この頃について、

(アマチュア時代)この4人(の活動)が一番長かった

と、語っています。

「大平市治の「安全地帯」脱退理由は玉置浩二?脱退後から死去までの経歴は?」に続く

お読みいただきありがとうございました

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