幼い頃から、お母さんも手を焼くほど、自己主張が強く、弁が立ち、個性豊かな学生が集まる文化学院油絵科時代も、周囲から姉御肌の存在として慕われていたという、安井かずみ(やすい かずみ)さんですが、
今回は、そんな安井かずみさんの幼少期(生い立ち)から文化学院油絵科在学時代までをご紹介します。

安井かずみのプロフィール
安井かずみさんは、1938年12月25日生まれ、
(届け出の都合で戸籍は1939年1月2日生まれだったそうです)
神奈川県横浜市の出身、
学歴は、
フェリス女学院高等学校
⇒文化学院油絵科卒業
ちなみに、本名は「安井一美」(読み方同じ)で、愛称は「ズズ (ZUZU)」、初期の頃は、「みナみ カズみ」のペンネームで活動していたそうです。
安井かずみは幼い頃から自己主張の強い勝ち気な女の子だった
安井かずみさんは、東京ガスで、球体のガスタンクを開発するなど優秀な技術者だったお父さんの安井修一さんと、教育熱心なお母さんのもと、2人姉妹の長女として誕生したそうですが、
幼い頃から、自己主張の強い勝ち気な性格の、弁の立つ女の子だったそうで、お母さんも手を焼くほどだったそうです。
そんな中、お母さんは、その後、安井かずみさんと5歳違いの女の子を出産したそうですが、次は、穏やかな女の子になってほしいと、従順の順から、順子と名付けたのだそうです。
すると、安井かずみさんは、この妹の順子さんに対して、常に、叱ったり、命令したりしていたそうですが、成長した順子さんは、ミス横浜に選ばれるなど才色兼備の女性だったそうで、安井かずみさんは、そんな妹に嫉妬心をむき出しにしていたといいます。
安井かずみは中学・高校時代は読書好きな寡黙な少女だった
そんな安井かずみさんは、小学校では、卒業式で答辞を述べるほど成績優秀だったそうで、小学校卒業後は、お嬢様学校だったプロテスタント系の名門フェリス女学院(中・高一貫校)に進学したそうですが、
中学・高校時代の安井かずみさんは、本を読むことが好きな寡黙な少女だったそうです。
安井かずみは高校時代は画家を目指していた
その一方で、安井かずみさんは、茶道、華道、ヴァイオリン、ピアノ、バレエ、日舞、フランス語、テニスと、様々な習い事をしていたそうですが、
中でも、油絵に夢中になり、神奈川県の高校美術展覧会では、朝日新聞賞を受賞したこともあったそうで、女流画家を目指し、芸術系大学への進学を志望するようになっていったそうです。
安井かずみは学生時代から華やかな生活をしていた
こうして、安井かずみさんは、東京芸術大学絵画科油画専攻を受験したそうですが、競争率20数倍という難関の前に、あえなく不合格となってしまったそうで、
それから1年後の1958年、19歳の時、文化学院油絵科に進学したそうです。
ちなみに、文化学院の油絵科は、歌人・西村伊作や与謝野晶子らが「自由で創造的な人材の育成」を掲げて設立したもので、学費も高額だったことから、一般的な就職を望む人は通わない、特別で社会常識から離れた独特の場所だったそうですが、
そんな個性豊かな学生が集まる環境でも、安井かずみさんはとりわけ目立ち、周囲から姉御肌の存在として慕われていたといいます。
また、安井かずみさんは、銀座で個展を開いたり、学生でありながらMGなどの外車のスポーツカーを自在に乗りこなしたりと、その生活ぶりは華やかで、
昼間は、帝国ホテルのテラスで友人とシルバーダラー・ケーキを味わうほか、銀座でショッピング、日比谷で映画鑑賞、休暇にはゴルフやテニス、スキー、さらにはカーレースまで楽しむなど、その暮らしぶりは当時の一般的な若者とは大きくかけ離れたものだったといいます。
「【画像】安井かずみの若い頃から死去までの代表作(作詞,著書)や経歴は?」に続く

1961年、21歳の時、エルヴィス・プレスリーのヒット曲「GIブルース」で訳詞家デビューすると、1964年には、園まりさんに作詞を提供した「何も云わないで」が大ヒットを記録し、 以降、「わたしの城下町」「危険なふたり」「 …







