1970年、「イメージの詩」でレコードデビューすると、1972年には、若者の恋や生き方を明るく歌い上げた「結婚しようよ」が大ヒットし、一躍、トップアーティストの仲間入りを果たした、吉田拓郎(よしだ たくろう)さん。

そんな吉田拓郎さんは、幼い頃は、父親や兄が不在の女性ばかりの環境の中で育ったそうで、中学2年の時、お姉さんの影響で歌謡曲を聴くようになると、

高校時代には、文化祭で同年代の高校生がエレキバンドを演奏している姿に衝撃を受け、級友たちとインストゥルメンタル・バンド「トーン・ダイヤモンズ」を結成して、家に下宿していた大学生にギターを習い始めたといいます。

今回は、吉田拓郎さんの、生い立ち(幼少期から高校時代まで)をご紹介します。

吉田拓郎

Sponsored Link

吉田拓郎は小学2年生の時に鹿児島県から広島県に移り住んでいた

吉田拓郎さんは、鹿児島県の郷土史家だったお父さんの正廣さんと、良家のお嬢様育ちだったお母さん・朝子さんのもと、4人兄弟の末っ子として誕生すると、

1952年、吉田拓郎さんが6歳の時、鹿児島郡谷山町(現・鹿児島市)に引っ越し、小学校2年生までそこで過ごしたそうですが、

終戦直後の鹿児島での生活は厳しく、お母さんが栄養士の国家資格を取得して広島で仕事を得たことをきっかけに、1955年、吉田拓郎さんが小学校2年生の終わり頃、お母さんと共に広島へ移り住んだそうです。

吉田拓郎の少年時代は女性ばかりの環境で育っていた

こうして、お父さん一人、鹿児島に残り、14歳年上のお兄さんは大学進学で上京していたことから、吉田拓郎さんは、女性ばかりの家庭で、女性の影響を大きく受けて育ったそうですが、

吉田拓郎さんは、不在だったお父さんと14歳年上のお兄さんからも大きな影響を受けたといいます。

というのも、まず、お兄さんは、立教大学でジャズを学び、都会的な恋人を連れて帰省した姿が、吉田拓郎さんに「音楽でこんな人生を送れる」と感じさせて、音楽の道へ進むきっかけとなり、

お父さんは、学歴や出世を強く求めていたことから、長男の音楽活動に激怒し、次男の吉田拓郎さんの歌手デビューに失望していたそうですが、自分自身はというと、風来坊のような生活をしていたそうで、

吉田拓郎さんは、放浪的で家庭を顧みることのなかったお父さんとお兄さんを尊敬できなかったものの、その存在が人格形成に大きく影響したのだそうです。

吉田拓郎は小・中学校時代は喘息で体が弱かった

さておき、吉田拓郎さんは、小・中学時代、喘息(ぜんそく)で長く学校を休むことが多く、学業や体力面で同級生に遅れを感じ、劣等感を抱いていたそうで、

(発作時以外は普通に過ごせたため、鹿児島に住んでいた頃は、欲しい漫画の発売日前夜に、お父さんに頼んで漫画を買ってきてもらい、休みの日はラジオや漫画雑誌に没頭したのだそうです)

体が弱いことで女子からも恋愛対象にされず、好きな子がいても遠くから想いを寄せているだけで、デートの下見や段取りまで緻密に妄想する癖がついたといいます。

吉田拓郎は高校2年生の時にギターを始めていた

それでも、中学2年の時には、お姉さんの影響により、歌謡曲を聴くようになると、高校進学後、文化祭で同年代のエレキバンド演奏に衝撃を受け、級友たちとインストゥルメンタル・バンド「トーン・ダイヤモンズ」を結成したそうで、

高校2年生の時には、ギターを手に入れ、吉田拓郎さんの家に下宿していた大学生からクラシックギターを学んだのだそうです。

吉田拓郎は高校2年生の時に「準ちゃん」に片思いしていた

そんな吉田拓郎さんは、高校2年生の時、1学年年下の、テニス部に所属するマドンナ的な存在の女の子に片思いしていたそうですが、

この女の子が、後の、楽曲「準ちゃん」のモデルになったのだそうです。

Sponsored Link

吉田拓郎は高校3年生の時にビートルズのコピーバンド「プレイボーイズ」を結成していた

その後、吉田拓郎さんは、1964年、高校3年生の時には、ビートルズに強く影響を受けたそうで、

バンド名を「トーン・ダイヤモンズ」から「プレイボーイズ」に改めると、ビートルズのコピー専門バンドとして活動を開始したのだそうです。

「吉田拓郎のデビュー前(アマチュア時代)はバチェラーズやダウンタウンズ!」に続く

お読みいただきありがとうございました

Sponsored Link